招かれざる客

 昨日の夕方のこと。我が家の庭先を、わけの分からない言語で携帯電話をしている若者が通っていった。ここは六本木じゃない。西三河の小さな町のそれも住宅街の細い路地である。でもね、日常的にその路地を中国人が、ブラジル人が、その他の言語を話す異邦人が、我が物顔に闊歩している。
 先日、岐阜に行った。岐阜県美濃加茂市なんて、山の中の田舎町ですぞ。そこでコンビニに寄った。ワシャ以外に数名の客がいたが、そいつらは全員日本人じゃなかった。繰り返すが美濃加茂は六本木じゃないんだ。

 ワシャの住むあたりは、かなり高齢化が進んでいる。路地に面した10軒のうち半数以上が高齢者世帯だ。だから暑い日など、老人たちが路地に縁台を出して涼んでいる。その脇を猛スピードで外国人労働者の乗る自転車が通過していく。大声で「■▽×@★☆◎●#$!!」と喚きながら。彼らは日本人とは違った文化の中に育まれた人間なのである。そもそも価値観が違うということを念頭において付き合いかたを考えたほうがいい。

 明治のお雇い外国人の日本研究家、バジル・ホール・チェンバレンがこんなことを書き残している。
《日本人の礼儀は心底から生ずる礼儀であり、単に挨拶をして頭を下げたり微笑したりするものよりは深いものであって、日本人の真の親切心に根ざすものであることを確信するに至った》
 もちろん、彼が来日した明治の初期でも、こんな礼儀正しい日本人ばかりではなかったが、それでもある一定以上の教養を持っている日本人はおおよそこんな様子だったのだろう。礼節をどこかの時代に置き忘れてしまったようなバカが増殖している現在でも本質の部分は変わっていないと思う。覚醒剤に手を出さず、借金してまでギャンブルに狂わず、地味だが堅実な日常を生きている人たちはたくさんいる。そういった善良な人々は逝きし世に存在した「おくゆかしさ」のDNAをまだ持っている。少なくともワシャの周囲には、そんな人ばかりで人だかりができるほどじゃ。

 そういった堅実な日本人の地域の中に、人を押し退けてでも権利主張することを「是」とするDNAを持つ異邦人が根を張りつつある。大沢在昌『B・D・T 掟の街』(角川書店)は不法滞在外国人に占拠されつつある近未来の新宿や六本木が舞台となっていたが、外国人ばかりの東京は悲惨だった。しつこいようだが日本の地方は「六本木じゃないんだ!」
 よき日本を次の世代に伝えていくために、日本を、日本の歴史、風土、習慣を愛する人々の手に取り戻そうではないか。って、大袈裟ですけど、いつもそう思っている。