名ピアニスト

 昨日、論語塾があった。もう既に講義も終盤にさしかかった。「下論(かろん)」のちょうど真ん中、「衛霊公編」あたりである。そこにこんな章があった。
《師冕見ゆ(しべんまみゆ)。階に及べり。子曰わく、階なり。席に及べり。子曰わく、席なり。皆な坐す。子これに告げて曰わく、某はここにあり、某はここにあり。》
 これは孔子が楽師の冕に会った時のことを記している。意味は、
《楽師の冕が階段のところまで来ると、孔子は「階段ですよ」、席まで来ると「席ですよ」と案内をした。みんなが着席すると「誰それはそこに、誰それはここにおります」と丁寧に教えられた》というようなことである。
 孔子が楽師の冕を丁重に遇していることがお分かり頂けると思う。そして、楽師の冕は目が不自由であることも読み取れますよね。当時、音楽は盲人が司っていた。
 同じく『論語』の「郷党編」に「先生は、正装をした人と目の悪い人にあうと、親しい間柄でも必ず様子をあらためられた」とある。古代、盲目の人は聖なる人として尊崇の対象だった。「聖」という字に「耳」が入っているでしょ。「聖」というのは祝いの言葉を述べ、耳を澄ませて神の啓示を聴くという意味がある。神の声を聴くためには目から雑念が入る者ではだめなようだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090614-00000059-san-soci
 盲目のピアニスト辻井伸行さんの活躍が伝えられている。ご両親が幼い辻井さんとピアノを出合わせたのは素晴らしい見識だと思う。辻井さんは神の音を聴くことができる聖者、孔子が居住まいを糺す瞽者なのである。是非、我々凡人に神の音を再現して聴かせてほしいものだ。
 そうそう、その辻井さんが今週の水曜日に愛知芸術文化センターにやってくる。ワシャは行けないけど、友人がチケットを入手している(羨まピー!)。充分、堪能してきてくださいね。