硫黄島守備隊全滅

 栗林中将に率いられた硫黄島守備隊23,000は、圧倒的な火力、兵力を持つアメリカ軍と27日間に及ぶ死闘を繰り広げ全滅した。昭和20年3月17日のことである。アメリカが攻勢に転じてから、アメリカ軍の被害が日本軍を上回った唯一の戦闘だった。
 栗林忠道という将軍は、『栗林忠道 硫黄島からの手紙』(文藝春秋)などを読む限り心優しい人物だったことがわかる。水もない食料もない状況で日に何度という米軍の空襲にみまわれながらも、「長男の勉強部屋が寒いだろうから、部屋を移動したほうがいい」とか「長女の手紙に、文字の間違いが多い。もう少し一心に国語の書き取りをやらないといけない」というような心配を書き送っている。
 栗林中将は手紙の中に「自分は生還できない」ということを度々書いている。太平洋戦線の戦況を把握し、守備すべき島の状況を考慮し、自軍の戦力を計算すれば、生きて帰れるわけがなかった。硫黄島アメリカ軍にとって戦略上重要な拠点である。グァムから飛び立ったB29の燃料補給基地ともなるだろうし、その爆撃機を護衛する戦闘機の基地にもなりうる。だから米軍としても必死だ。しかし、それを許せば、日本本土の空爆が容易になり、多くの国民の苦難を招くことになる。だから、この島を命に代えても守らなければならないと栗林は決意した。
 彼は大本営で戦力を数値として扱っている官僚軍人ではなかったし、むやみに玉砕を唱える無能な指揮官でもなかった。現有戦力で最も効果的な攻撃はなにか、どう戦えば後々の日本のためになるかを常に考えて戦場に臨んでいる。名将と言っていい。日本陸軍きっての愚将、服部卓四郎や牟田口廉也とはモノが違うのだ。
 名将は常に守備隊の先頭に立って部下を指揮し、そして部隊とともに地獄の中で遂に力尽きる。享年53歳、壮絶な戦死だった。
 戦後60余年、日本は戦争のことを忘れ、戦場で戦った人たちのことを忘れ、どっぷりとぬるま湯に浸かってきた。来月にも栗林中将が命を賭して守ろうとした日本の上空をどこかの国のミサイルがひょろひょろと飛んでいく。防人たちが命であがなった国の尊厳を、無能な政治家、卑劣な政治屋どもが泥にまみれさせてしまった。こんなことでいいのだろうか。
 命がけで守らなければいけないものというのは必ずあると思うのだが……
 硫黄島全滅の日にそんなことを思った。