江戸時代の大衆情報媒体の一つに歌舞伎があげられる。庶民は歌舞伎からいろいろな情報を入手し学習していた。
元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下で浅野内匠頭刃傷事件が起きた。この第一の事件が因となって1年9ヵ月後に吉良邸討ち入りとなる。この一連の出来事を「赤穂事件」と総称する。
この事件、第一原因者の内匠頭が何も語らず(何も語れず)にさっさと切腹してしまったから、真相がわからぬまま根拠のない話ばかりが巷間を飛び交った。無責任な戯作者たちは、討ち入りからわずか2ヵ月で「赤穂事件」を曽我兄弟の仇討ちに仮託して江戸堺町中村座で上演している。早い。また、近松門左衛門は京都歌舞伎で討ち入りの場を見せている。これは、事件後、1ヵ月のことで、さらに早い。その後、忠臣蔵の時代背景を足利の世に求めた「碁盤太平記」などを経て、最初の事件から47年後に「仮名手本忠臣蔵」の虚構の世界が完成する。
一言で決めつければ、実際にあった「赤穂事件」と「忠臣蔵」はまったく別のものだと言うことだ。「松の廊下の刃傷」や「吉良邸討ち入り」の部分を借用しているが、なんら事件について検証されたものではなく作者が勝手に創造したものが並んでいるだけである。もちろんエンタテイメントとしては傑作である。しかし、現実の事件とはまったく乖離した別物であるという認識を見る側が持つべきだろう。
ところが大衆の多くは現実の「赤穂事件」と虚構の「忠臣蔵」を混同している。だから、吉良上野介は未だに人の女房に懸想し賄賂を欲しがる姦佞の人ということになっている。これなんかも江戸のマスメディアである歌舞伎がつくった嘘の被害といっていい。
歌舞伎話よりも信憑性の高い「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」や「諌懲後正(かんちょうこうせい)」に拠れば、上野介よりも、内匠頭の方が問題の多い人物だったことが判る。「ひきこもり」で「女色に耽溺」し「視野が狭く」「短慮」で「生まれつき気が小さい」人物だったそうだ。それに比べて、上野介は仁愛の殿様として地元での評判は高い。にも関わらず風評で極悪人とされ、270年も虐げられてきたのだ。悲劇といっていい。
情報があふれる現在社会において、とにかく最初は疑ってかかる、という慎重さが必要ではないだろうか。
「蒟蒻畑だけが悪者です」
「両親がフィリピンに帰国する13歳の少女はかわいそう」
「神田高校入試で、服装、態度の悪かった受験生を不合格としたのは不見識だ」
「情報を鵜呑みにするのは危険じゃ」草葉の陰で上野介が呟いている。