人の生き様

 昨日は書店、古書店ブックオフと駆け回り、50冊ほどの本を買った。久々に午後から予定が入っていなかったので、書斎(物置とも言う)にこもって読書に励む。10冊ほどをぱらぱらと走り読みしたが、好対照な話があったので書いておく。
 浅田次郎『五郎治殿御始末(ごろうじどのおしまつ)』(中央公論新社)の話。
 物語は、明治維新を賊軍の行政官として生き延びた老武士が孫とともに死に場所を求めて名古屋にやってくる。自害寸前に旧知の商人に助けられ、その家に孫を託し老武士は再び死に場所を求めて去っていく。何年かが過ぎ、成長した孫の元に老武士の戦死公報が届いた。末尾の文章はこうだ。
武家の道徳の第一は、おのれを語らざることであった。軍人であり、行政官でもあった彼らは、無私無欲であることを士道の第一と心得ていた。翻せば、それは自己の存在そのもの対する懐疑である。無私である私の存在に懐疑し続ける者、それが武士であった。》
 もう1冊は、西尾幹二『男子、一生の問題』(三笠書房)である。この中に「私が知る限り最も唾棄すべき人物」という章がある。章題がいささか矯激に過ぎるところが西尾さんらしいが、この中で唾棄すべき外務省の高級官僚のエピソードが語られている。
 西尾さんはとある学資支援団体に公演を依頼された。西尾さんに先立って50代の官僚が登壇し謝辞を述べる手はずになっていた。ところが、その官僚、何をとち狂ったか延々と自分の話を始めた。
「自分はいかにベトナムに貢献したか」
「自分はベトナムで本を書いて賞をもらった」
「自分は妻を亡くした」
「その後、十代のベトナムの少女と結婚した」
「いかに前妻を愛し、後妻も愛しているか」
 などなど、終始、自分の個人的な話を講演会に来ている聴衆に話し続けたそうだ。西尾さんは言う。
《一般的にいって、後味の悪い挨拶というのは、過度に自分の話をしたがる人のそれであることは間違いない。自分の話ばかりするのは恥ずかしいが、「自分の妻の話をすることは、さらにいけない」とは、ラ・ロシュフコーの名言である。》
 何も語らず戦場に散った老武士、己を語り倒した高級官僚、どちらが上等な人間なんでしょうね。

※武士道