先生はえらいか?

 蒲郡のKさんよりメールをいただいた。内容は昨日の日記についてのご意見である。学校、教師のいい加減さの実例を示し、「魔性」事件はほんの一例に過ぎず、そこには学校の持つ根深い問題が隠されているということを指摘されていた。
 そのとおりだと思いますぞ。
 学校が様々な問題を内包しているのは間違いない。
 例えば学歴の問題。父兄の学歴が上がった分だけ、教師の立場は相対的に低くなっている。長屋の熊さん八つあんならば、学が無いから「魔性」が読めない。「きっとありがてぇことが書いてあるにちげえねぇ」と思って神棚に上げてしまうから問題にならなかったのだ。
 かつて教師は聖職だった。しかし、今やその位置は地に落ち、仕事に誇りが持てなくなっている。併せて、日々、旧態とした組織の中で膨大な業務に翻弄され、細かな部分にまで気配りが行きとどかないというのが実情だろう。
 だから、あんまり教師を貶めるのもどうかと思うのじゃ。

 神戸女学院大学教授の内田樹さんがこんなことを言っている。
《「先生はえらい」のです。たとえ何ひとつ教えてくれなくても。「えらい」と思いさえすれば学びの道はひらかれる。》
《「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しません。昔からいませんでした。「絶滅寸前種」どころか、はじめから存在しなかったのです。はじめから存在しなかったものを「存在しなくなった」と文句を言っても仕方がありません》
 ワシャもそう思う。今まで200人以上の教師と縁をつないできたが、まともな教師なんてほとんどいなかった。でもね、とくにガキンチョの前で、先生の悪口は言わなかった。くだらない人格の担任でも、反面的に学ぶこともできるだろうと思って、不満があってもそれを表明することはなかった。たった一度だけ子どもの扱い方で腸が煮え繰り返るようなことがあったが、その時もぐっとこらえて我慢して波風を立てなかった。
 あれから数年が経過したが、あの時に学校や教師にクレームをつけなくてよかったと思っている。子どもは何も知らず、その時の先生を未だに「いい先生だった」と思いこんで、曲がりもせずにすくすくと成人してくれた。そのことだけでも、いい先生だった。
 教師に多大な期待をせず、必要以上に貶めず、子どもが自発的に「学ぶということ」の理解を進められるような、大らかな環境づくりが必要ではないだろうか。

 教師との関係性を知るには、内田樹『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)をお薦めしますぞ。