三遊亭小遊三の独演会に行ってきた。演目はってえと、相撲噺の「佐野山」、与太郎噺から「鮑のし」、吝嗇噺の「味噌蔵」の三席だ。「佐野山」は弟子の遊馬が出して、外の二っつは小遊三が噺した。久しぶりに楽しい午後を過ごしたわい。
それにしても落語というのは繊細な芸能ですな。なにしろ舞台装置というものがまったくない。素面の男が扇子と手拭いだけを頼りにただひたすらしゃべるだけの芸なのである。逆に何もないから、客は演者の仕草や視線、噺の間などによって、噺家の周囲にモノや風景を見ることができる。
「その財布」と言っておいてから、すっと膝の前を指差して視線を落とす。そうすると客にもそこに財布が見えるってぇ寸法だ。時には殺風景な舞台が、れんげや菜の花が咲き誇る京都嵯峨野の風景(愛宕山)になったり、花見客でごったがえす上野の山の景色(長屋の花見)になったりする。
去年、島根県安来市で開催された三笑亭夢之助の落語会で手話通訳を「気が散る」ということで舞台下に降ろしたというニュースがあった。ワシャは高座には噺家以外は上るべきではないと確信している。昨日、小遊三の高座を見ていて、ますますその思いを強くした。
安来市の時に夢之助が言った「気が散る」というのは、演者のことを言ったのではなくて客のことを言ったのだ。小遊三の脇に表情豊な手話通訳者が身振り手振りで動いていたら、ワシャは江戸時代の長屋や大店の店先にトリップなんてできまへん。長屋の路地に、まったく物語と関係のない洋服を着たおばさんが立っているんですぞ。今回の主催者が落語という芸の繊細さを理解していてくれて本当にありがたかった。めでたしめでたし。