吉良家の防災対策 その1

 吉良邸の位置である。赤穂事件が起こった(気のふれた内匠頭が上野介に切りかかった)時、つまり元禄14年3月14日は呉服橋御門内大名小路の一角に3000坪の屋敷を構えていた。現在でいうなら東京駅構内の北地区あたりだろう。江戸城の一郭といっていい場所だった。
 ここで騒ぎを起こされては幕府の面子が丸つぶれになる。これを恐れた幕府首脳は呉服橋の屋敷を召し上げ、両国橋を東に渡った本所松坂町竪川北の2550坪の敷地を代替地として与えた。南北63m東西134mの長方形、東、南、西面を長屋で守り、北側は旗本土屋主税邸、同じく本多孫太郎邸と境界を接しており、そちらは生子べいで仕切られている。その状況は「吉良邸絵図面」として詳細な見取り図が残されているので、邸内の間取りまでしっかりと検証することができる。

 さて、吉良側の備えだ。結論から言えばまったく赤穂浪士の襲撃など念頭になかった。だから対策などとっていなかったというのが真実である。片手落ちの裁可で取り潰された赤穂の浪人どもが、亡き主君の無念を晴らさんがために吉良上野介を討つのではないかと、世情で噂されていたにも関わらず、文官であった上野介には、どうもピンとこなかったらしい。世は元禄の太平のなかにある。まさか浪士どもが徒党を組んで押し入って来るなどとは、想像すらできなかった。だから屋敷の守りを固めるために邸内の造作をいじるとか、警護の陣容を厚くするとか、昼夜二交代の当番制を敷くとかの態勢がとられていなかった。その上、14日(内匠頭命日)というもっとも危険が予想される日に茶会を開催してしまうという無防備さなのである。
 ワルシャワ参謀ならどうするか。(下へ続く)