刈谷の赤穂浪士

 赤穂浪士四十七士が、あわれ吉良上野介の首を挙げたのは12月14日の未明のことだった。討ち入りの日付は14日ということなのだが、実際には寅の上刻というから午前4時、現代で言えば、12月15日の早朝という頃合いだ。
 だから赤穂浪士について書くのは今日のほうが相応しいということになる。

 さて、とてもカントリーな話になるが赤穂浪士の一人が愛知県刈谷市に住んでいたというのは以外に知られていない。一人だけ生き残った四十七番目の義士寺坂吉右衛門が、その後、譜代の本多家の家臣に仕えた。その本田家が宝永7年(1710)に刈谷藩に転封となったため、赤穂浪士寺坂吉右衛門は5年間の短い間ではあるが刈谷で過ごしている。45歳から50歳までのことであった。

 文献を漁っていて、こういう事実に突き当たると「ニヤリ」としてしまうのじゃ。なんだか海岸の砂浜で500円硬貨見つけたみたいにうれしい。

 刈谷の寺坂吉衛門はもう少し温めておこうっと。