再々「いじめ」について

 今朝の朝日新聞「声」欄にも「いじめをなくせ」という観点から書かれた投書が載っていた。でもねワシャは根本的に「いじめ」をなくすことを不可能だと思っている。 
 福田和也『この国の仇(かたき)』(光文社1998年初版)の言を借りよう。
 福田さんは、人間が集団を形成する過程において、完全に平等で均等に構成されることは在り得ないとした上で、次のように続ける。
《なんらかの形で、可視的であれ、不可視的であれ、序列づけの欲求はあるわけですね。序列づけは当然のことながら、優位に立つ者、強い者が、自分の存在を誇示するために権力を振るうことにつながります。》
 この権力の行使が集団の生理として「いじめ」を生み、より獣性の強い子どもには抜きがたい習性としてあるのだと言う。
《いいですか、いじめをなくそう、という理想的というか空想的な目標を掲げた途端、いじめは「あってはならないこと」になってしまい、表面から消え、陰湿なものになってしまうのです。》
 ううむ、図らずも現在の文科省の出している統計に並んだ「いじめ0」報告を予言しておりましたな。これがいじめを助長しているという実態を伊吹くんは自覚しなければなにも始まらない。
 そして福田さんは「いじめ」の状態を打開するには、「弱い者が強くなることしかない」と言っている。それは腕力であるかもしれないし、学力かもしれない。あるいは精神力であってもいいだろうが、ともかくいじめられッ子という役割に甘んじないようにすることが重要なのである。
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=427365&log=20061018
 10日ほど前にワシャが新入社員のときのいじめられ話を書いたが、あの場面でワシャが徳利を持って反撃しなければ、バカどものいじめは執拗に続き、やがてワシャの神経はその屈辱に耐えられず病んでいったに違いない。でもね、反撃をするという精神的な強さを見せることで、あるいはいつでも一戦交えてやるという覚悟を見せることで、いじめを仕掛けてくるバカなどは撃退できるものなのである。
原因をすぐに社会や体制側にあるとする朝日シンパのオバさんの結論はこうだ。
「教育現場を根本から立て直せ」
 違う。まずは親と子が協力して、「強さ」を見につけることからはじめなければいけない。
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=427365&log=20061020
 黒澤明の脱皮もまさにこれだ。
 いじめが原因による自殺のニュースを耳にするたびに心からそう思うのだった。