再び「いじめ」について

 斎藤孝『天才になる瞬間』(青春出版)の中に、映画監督の黒澤明のこんなエピソードがある。
《ある日のこと。道場の稽古からの帰り道に、他校のイジメッ子が集まっていた。それを無視して通りすぎると、次から次に石が飛んできた。そして、7、8人の悪ガキが、棒を振り回しながら襲ってきた。》
 この文章には前段があって、少年時代の黒澤はカエルを見ただけでも泣き出すような意気地のない子で、自身も「精薄児だったとは思いたくないが、知恵が遅れていたことはたしかである」と述懐している。意気地がなくて知恵が遅れている、これは子どもたちにしてみれば格好の「いじめ」の対象である。そして担任も「これは黒澤君にはわからないだろう」とか「これは黒澤君には無理だろう」と他の児童の前で口にしていたと言う。こういう状況が繰り返されて、黒澤少年は「いじめ」の連鎖の中に陥っていく。ここまでは今全国でいじめられている少年少女と大した差はなかろう。だが天才黒澤はここからが違っている。
 肉体的にも、精神的にも他者よりも劣っていると自覚した黒澤少年は、その弱点克服のために全精力を注ぐ。「剣道に強くなって自信をつけよう。それにはまず素振りだ」強くなりたい一心で道場に通い、来る日も来る日も素振りに励んだことだろう。量的な蓄積は必ず質的な変化を起こす。剣道に没頭した黒澤少年の中で、反復練習が質的変化を遂げて「自信」になった。
《ここで黒澤少年は、持っていた竹刀を構えて応戦。下駄を脱ぎ捨て、夢中で悪ガキたちに立ち向かうと、悪ガキたちの方が腰が引けて逃げ出した。》
 いじめられっ子の黒澤少年が脱皮した瞬間である。

 敢えて言いたい。どうして最近の子どもは戦わなくなってしまったんだろう。連綿と遺書を綴る前に声を挙げろ。そして黒澤少年のように現実に立ち向かえ。人生なんて、社会なんて「いじめ」の連続であると言ってもいい。国会から、小さな零細企業に至るまで「いじめ」のないところなど皆無だ。「いじめ」の度に死を選んでしまったら100回死んでも足りないかもしれない。
 死を選ぶ前に、立ち上がってくれ、いじめられている子どもたちよ。