利休忌に

 天正19年2月28日、千利休豊臣秀吉の逆鱗に触れて自裁、享年70歳だった。
 この利休に関連して疑問がある。それは「常滑焼き」についてである。利休、今井宗久、津田宗及らの牽引により16世紀末、桃山和物茶陶が隆盛を迎える。これにより瀬戸、美濃、信楽備前などが茶人にもてはやされることになるのだが、とんと出てこないのが常滑だった。
 往古、常滑窯は知多半島全域に3,000基を数えたというから一大陶器製造センターの様相を呈していただろう。知多の山々で焼かれた陶器が常滑の港から積み出され、全国へ運び出されて行ったに違いない。例えば東北平泉からも常滑焼きは大量に出土していることからも、常滑の全国展開がよくわかろうというものである。
 さて、中世に一般的な焼き物として流通していた常滑焼きが何故桃山文化の中で茶陶から除外され続けたのだろうか。
 それはね、利休らその時代のトップ茶人たちが常滑焼きを茶の湯に用いなかったからだった。でも、その時代の常滑焼きの壷や甕を見ると味わいのある逸品が多く、これらなら充分に茶事・茶会での使用に充分耐えられると思うのだが、そうは行かなかった。
 ときの権力者、織田信長の存在である。彼は常滑のある南尾張の小領主からその人生を始めている。そのスタートの頃、常滑には信長に反抗する水野という一族がいた。信長、この一族がどうにも気に入らなかったらしく、金を産む経済活動としての常滑焼きは庇護するのだが、瀬戸や美濃のように茶陶としての名誉を与えることはなかった。代が替わって秀吉になっても状況は変わらなかった。権力者の顔色を慮った茶人たちはついに常滑焼きを茶陶として珍重することはなかった。
 ワシャは常滑焼きの抹茶茶碗を3つ持っている。う〜ん、常滑というとオーソドックスなのが金属のような光沢を持つ朱泥ものなのだが、ワシャの持っているのは土味のある粗い土でザラリとした手触りの熊川(こもがい)形の茶碗だ。これを常滑のセラモールで購入した。安い茶碗だけどけっこう気に入って使っている。
 常滑の水野氏と利休たちは交流があったという。だから常滑の壷を手にしたことも2度3度とあったに違いない。「これは葉茶を貯えるのに好適であるな」と思っただろうが、独裁者に遠慮して使うことはなかった。このために常滑はひたすら日常雑器を作りつづけて現在に至っている。