読書会1、飲み会1

 昨夜は知立のリリオで読書会、課題図書は司馬遼太郎の『この国のかたち』第一巻である。たまたま前回の会から米国の若者がゲスト参加しているので、日本を正しく理解してもらうのには格好の教科書になるだろうということで選んだ。司馬ファンのワシャはすでに何度も読んでいるのだが、読書会のためにあらためて読みなおしてみると、いやはや司馬さんの慧眼には恐れ入る。
 この巻の中に「”雑貨屋”の帝国主義」というエッセイがある。話は、浅茅ケ原で司馬さんが化け物に出会うところから始まっている。
《その粘液質にぬめったモノだけは、色がある。ただし、ときには褐色になったり、黒い斑点を帯びたり、黒色になったりもする。割れてささくれた爪もそなえている。両眼が金色に光り、口中に牙もある。牙は折れている。形はたえず変化し、とらえようがない。わずかに息づいているが、言えそうなことは、みずからの力ではもはや人里に出られそうにないということである。》
 このモノは「日本の近代」だと名乗った。それも日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦までの間の40年が形となって山中に捨てられているのだという。
 司馬さんのエッセイの中で、こんな具体的な化け物が登場し日本の近代を分析するというのは異色中の異色と言っていい。文藝春秋で『この国のかたち』の連載が始まったばかりで、司馬さんも力が入っている。
 司馬さんは言う。
「この国を滅ぼしたモノはヒトラーのような独裁者ではなかった。明治38年日比谷公園に集まって焼き討ちをした大群衆に代表される大衆がこの国を泥沼の戦場へと駆りたてたのである」
 あるカテゴリーの人々はヒトラー東條英機を並べて論じてくれたりする。しかし残念なことに軍事官僚でしかない東条は二、三流の男で、せいぜい田舎の連隊長程度の器しかなかった面白味の無い人物だった。この男が片隅に祭られているから靖国神社参拝が国際問題になっているわけだが、ある意味、茶番だ。あの戦争は誰でもない「大衆」が支持して引き起こしたのである。
《大勢でこんなばかな四十年を持った国があるだろうか。》
 このエッセイの結びの言葉である。

 その後、知立駅前で食事を兼ねて一杯、久々に楽しい一時だったわい。