松平郷と巨匠

 新潮社の月刊誌『波』に宮城谷昌光の「古城の風景」という紀行が連載されている。今月号は「松平館」だ。
《親氏と弟の泰親の墓がある高月院へ向かった。山門をくぐり、本堂へつづく路を歩いてゆくと、満開の桜がみえた。その木の下に立ってふりあおぐと、淡紅が枝垂れ、天を飾って美しかった。境内の松の緑もあざやかで、寺全体にある静寂は春のゆたかさにつつまれていた。》
 宮城谷さん、春先に行かれたんですね。ちょっと季節がずれている観があって違和感がある。
 さて、この松平郷にはかの司馬遼太郎氏も足を運んでいる。そして未完の遺作となった「濃尾参州記」にこう書いている。
《高月院までのぼってみて、仰天した。清らかどころではなかった。
高月院へ近づく道路の両脇には、映画のセットのような練り塀が建てられていて、ゆくゆくは観光客に飲食を供するかのようであり、そのそばには道路にそって「天下祭」と書かれた黄色い旗が、大売出しのように何本も山風にひるがえっていた。
高月院にのぼると、テープに吹きこまれた和讃が、パチンコ屋の軍艦マーチのように拡声器でがなりたてていた。この騒音には、鳥もおそれるにちがいなかった。》
 同じ場所であるにもかかわらず、両者の印象はまったく反対だと言っていい。あるいは司馬さんがお亡くなりになる直前だったので、体調もよくなかったのではないだろうか。それがことさら松平郷の印象を悪くしたのかもしれない。
 もちろん地元のことでもあるので、ワシャも松平郷に行っている。その印象は基本的に司馬さんに準じるようなものだったことを覚えている。
 自然や歴史に人間が手を加えてはいけない。そう思っている。