謀略将軍

 数奇な運命を辿った将軍がいた。室町幕府第十五代将軍足利義昭である。天文6年(1537)というから信長より3つ年下になる。彼の人、数え6歳で母の実家近衛家の猶子となり興福寺別当一乗寺にて出家する。29歳の折、兄の将軍義輝が暗殺されると寺内に幽閉されるが、そこから辛くも脱出し越前の太守朝倉義景(よしかげ)のところに身を寄せることになる。将軍職に色気を見せる義昭を持て余していた義景は、信長の義昭招聘を渡りに舟とばかりに、越前から義昭を体よく追い出してしまう。義昭も小心者の義景では上洛はままならぬと見きって、戦国魔王のいる岐阜に赴くのである。その後わずか2ヶ月で、義昭は信長の軍事力を背景に都入りを果たしている。
 この義昭、どうも尻の定まらぬ男で、信長の尽力により将軍職についたにも関らず、なってしまえば信長など家臣に過ぎぬとばかりに軽んじはじめる。そんなことを魔王が許すはずもない。無能だが野心家の将軍と地位も名誉もないけれど実力と行動力を兼ね備えた成り上がり大名の鍔迫り合いが始まる。野心家はあちこちの権威に弱い大名に対して信長包囲網を呼びかけるのだがことごとく信長の実力にねじ伏せられ、天正元年(1573)に利用価値がなくなったと見た信長に放り出される。
 その後、毛利氏、本願寺、上杉氏などの地方勢力を頼って幕府再興に奔走するのだが、結局のところ徒労に終わった。
 義昭が最も憎むべき信長の悲報(義昭にとっては喜報だな)に接したのが備後国鞆であった。義昭、驚喜したに違いない。しかし戦国時代は大きく転回をしており、前時代の遺物にはもう利用価値がなかった。
 3年後、秀吉が政権をとり将軍職を目指すと再び義昭に利用価値が出てくる。秀吉、義昭の猶子になろうというのである。これはさすがにプライドだけは権化のような義昭、秀吉の望みを断っている。
 晩年は1万石の捨て扶持を秀吉からあてがわれ山城国槇島に住している。野心家の義昭、最も嫌った魔王の家来のそれも草莽の中から這い出してきたような秀吉にかしずかなければならなかった境遇をどう感じていただろうか。プライドの高い男だけに枯れたとはいえ、心中穏やかならざるものがあったに違いない。
 今日は、義昭の命日。