隣町の居酒屋へゆく

 岩熊さんというあだ名を持つ知人に誘われて隣町の居酒屋へゆく。その誘い方が振るっている。
「カツ丼が美味いんだ。ウッシッシ」
 かつて岩熊さんは小柄だが岩のような体躯の持ち主だったが、今は太ってマシュマロ熊になってしまった。そのマシュマロ腹をゆすってそう言った。
 ワシャは居酒屋では酒を飲むことにしている。なんてったって居《酒》屋だからね。酒を楽しむための店でヘビーな食べ物であるカツ丼を食う気はこれっぽっちもない。だから「俺は食わないぞ」と宣言して岩熊さんについていった。
 目的の居酒屋は住宅地の中にひっそりと佇んでいた。民家の一部を改造して店をつくってある。とくに趣味がいいということでもなく、まぁごくありきたりの居酒屋というのが第一印象だ。
 その居酒屋の入口で岩熊さんは立ち止まって、
「ここはおいらの隠れ家なのさ、ウッシッシ」と笑った。
 どうでもいいけど、その「ウッシッシ」と笑うのはやめなさいよ。
暖簾をくぐるとカウンターに椅子が6つ、座敷もあってテーブルが2つ置いてある。14人で満席だな。カウンターには50がらみのママが居て、座ると冷えた小ぶりのビアタンブラーと突出しの蛸のマリネを出してくれる。突出しに蛸のマリネとは・・・と、思ったが美味い。
 その後、いかの沖漬け、くじらのベーコン、長いものチーズ焼きなどを注文してビールを飲んでいると「珍しいものがあるのよ」とママが酔い熊さんにささやいている。
「だせだせだせー!」岩熊さんが吠えた。駄目だ、完全に酔っ払っている。
 調理場に引っ込んでしばらくして竹の籠に盛られた天麩羅をもって出てきた。岩熊さん、最初は「なんだ、天麩羅かよ」と失望していたが、これがただの天麩羅ではないことに気がつくと「おおおおー!」とまた吠えた。常連客が、今朝、下山村(今は豊田市)の山奥で摘んできたばかりの「モミジガサ(キク科)」の天麩羅だった。(「モミジガサ」高さ60センチほどの山中にはえる野草で、葉がカエデ類のように7裂している)
 これは美味かった。あっさりとした塩加減でいただいた。お陰でずいぶんとビールが進んだ。
 いい加減、腹が膨れてきたので、そろそろ帰ろうと提案すると、岩熊さん「まだカツ丼を食ってない」と言う。まだ食うのかよ。
 結局、岩熊さんがカツ丼を完食するまで付き合わされてしまった。ワシャはそれで帰ったのだが、岩熊さんはそのまま店に居残っている。彼は昨日家に帰ったのだろうか・・・心配だ。