死ということ

 2年前に悪友が死んでから「死」というものを身近に感じるようになった。考えてみれば気の小さいワシャはガキンチョの頃から「死ぬ」ということをイメージしては恐怖して泣いていた。随分と昔に亡くなった祖母にも生前に「死んだらどうなるの?」と質問をしていたような思い出がある。あの時、ばあちゃんは何て答えたんだろう。きっとカトリックだったんで「天国に逝くんだよ」とでも言っただろうね。
 昨日の朝、出勤途中の歩道でも「死」ということを考えていた。青天のすがすがしい朝っぱらからそんなことを考えなくてもよさそうなものだが、考えてしまったものは仕方がない。で、「死」に関する本を読みたくなったので、仕事帰りに書店に寄って「死」の関連の本を物色、新書の棚で「死んだらどうなるの?/玄侑宗久」が目についたので購入した。
 家にもどって夕食をとりながら読書、「早めにお風呂に入ってね」とカミさんに言われたので湯船で読書、風呂を出て髪の毛を乾かしながら読書をして、ようやく読了した。
 さすが玄侑さん、「死」について面白いフレーズが幾つかあった。浅学のワシャは、人間、死ねば数辺の骨を残しその他は跡形もなく消えてなくなるものだと思っていた。ところがそうじゃなかった。
「このからだは窒素・炭素・酸素・水素・イオウ・リンが98%を占める。むろんそのほかにも無数の微量元素があるわけだが、それらは燃えても空気中に広がるだけ。酸素と化合するにしても、依然としてすべての(自分を構成していた)元素たちはこの地球上からなくなってはいない」
 死んでも無くならないんだ・・・目から鰓蓋が落ちた。
 また一休宗純の歌を紹介している。
「今死んだ どこへも行かぬ 此処におる 尋ねはするな 物は言わぬぞ」
 死んでも此処に居るんだ。そうか、自分を構成した元素はみな健在で地球上に残っているんだ。ということは、天文学的な時を経れば、それがまた一同に集まって生物として復活する可能性もゼロではないということだ。何しろ時の流れは無限なのだからね。だから輪廻転生という仏教の教えも必ずしも荒唐無稽な話ではないということか。ちょっとだけ恐くなくなったけど、反対に遥かな未来、どこかの星で何かに生まれてくるとすると、これもまた恐い話ではある。(結局、恐いんかい!)