出藍の誉 その2

 かたや佐野七五三之助。
 島田魁新選組監察方)の書き残した「英名録」によれば尾州名古屋の人となっている。禁門の変を経て、長州が都から追い落とされ京の治安も一段落ついたのを機に、近藤勇は江戸へ帰郷し、新選組の補強をすべく第二次募集をしている。この際に伊東甲子太郎とともに入隊したメンバーのなかに七五三之助がいた。元治元年(1864)9月のことである。その後、七五三之助は新選組の隊士として活動をするのだが、平隊士で目だった武功もなかったので詳細は伝わっていない。ただ伊東らが近藤や土方に反目し分派活動を始め、御陵衛士として独立を果たす慶應3年(1867)3月あたりから七五三之助の身辺はにわかに騒がしくなってくる。分派に際し、伊東は七五三之助ら数名を新選組に残留させた。大義は「隊内に残り中間分子の組織が必要である」ということなのだが、これは体のいい切捨て工作に過ぎなかった。要するに伊東は大量脱盟者を出すことによる土方との軋轢を避けたのである。伊東は役に立つ者のみを選抜して新選組を去る。このあたりの扱いを見ても七五三之助はさしたる人物ではなさそうである。6月、元々、親伊東派だった七五三之助らは新選組内で孤立を深めていた。思い余った七五三之助らは月真院に駐屯する伊東を訪ね糾合を懇願するが、伊東は土方と交わした双方の移籍を禁ずる約定を盾に七五三之助らを追い返してしまうのである。その後、新選組の捕まり、脱隊首謀者とみなされた七五三之助以下4名が京都守護職屋敷にて自刃している。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば享年33歳であったという。時代に翻弄された人生といっていい。この年にやはり33歳の若者が死んでいる。坂本竜馬である。この大人物と比べれば脇役にもなれない書割の中の景色のような七五三之助なのだが、きっとその郷里で抱いたに違いない妹の子どもがゆく末、日本政界の頂点に君臨しようとは、もちろん夢にも思わなかっただろう。
 伯父と甥という近しい間柄にも関らず、この出世の差は無常と言わざるをえない。