城下町の午後

「咲いた桜になぜ駒つなぐ駒が勇めば花が散る〜」
 知人に誘われて小唄の会へ行った。ホテルの大きな座敷に舞台が設えてあり、客席には20人ほどが座っていた。ざっと見渡しても40代は私一人で、客も出演者も高齢化が進んでいる。それでも目を閉じて静かな三味線の旋律と年季の入った声音に身をゆだねていると、なんともいい心もちになってくる。
 小またの切れ上がった芸者の膝枕でうちらうつらしていると、三味線を弾き終えた別の芸者がやってきて「あら、ワーさん、お酒がすすんでないじゃないかえ、一杯お飲みよ」「あたしの酌じゃぁ気に入らないというのかい?ぽん太姐さんの膝枕で鼻の下を伸ばしちまってさ、あー、くやしいったらありゃしない!つねっちゃうよ」
 痛い痛い痛い・・・
 以上、妄想です。
 確かに小唄の会に元芸者さんもお見えになったが、、残念ながらまもなく70(自称)に手が届こうという大姉御で、艶っぽい話にはならなかった。それでもおっとりとした日本の文化に、一時、ひたるのはなかなか贅沢なもんでゲスなぁ。
 元々、小唄は花柳界の粋人たちによって普及してきた。例えば幕末の京都あたりで坂本竜馬が座敷で三味線を爪弾きながら小唄を歌っていたのは結構有名な話である。電気的な増幅をかけて大音量で音楽を楽しむのも否定はしないが、耳を澄まして聴く静かな音というのも一興だ。古い文化と敬遠するのではなく機会があったら聴いてみるといい。
 なお、冒頭の小唄だが、かなり意味深な曲である。基本的に小唄には色っぽい裏があるので、「咲いた桜」は「蕾から大人になったばかりの女」で「駒」は「ナニ」の象徴である。そのことを念頭において読みなおしてみなさいよ。ね、楽しいでしょ。
「うたたねの枕にひざの肌ざわり〜〜お風邪を召すとやわらかに〜〜肩をつつんだ袖ぶとん〜」
「打水のしたたる草に光る露〜〜恋にこがれて泣く虫の〜声をあわれと聞くほどの〜寂しい我が身に誰れがした〜」
 こんな小唄を爪弾いている芸者に色っぽい流し目なんぞされた日には、たまりませんなぁ、ご同輩。