読書ということについて

 歴史学者の中村孝也の著作に「家康の族葉」という本がある。内容は徳川家康の先祖、支族、妻妾、子女について詳細な研究成果が縷々述べられている。その中に「家康の読書」という項があり、こう書かれてある。「家康は政治家としては、稀に見る読書人であった。」へぇ〜、家康って読書家だったんだ。
 論文は、家康の読書法は3つあったと続く。第1は、文字と文章で表現されている和漢古今の書物を読むことで、家康は「論語、中庸、史記漢書六韜三略貞観政要延喜式、東鑑、其外色々」な書物を精読していた。第2は他人の言論を聞くことだった。これは耳読書といってもいいだろう。信長、秀吉とは違って家康は多くの学者や僧を身辺に配置している。彼らから仏典や神道に関する知識を得ていたのである。第3は、体読書である。色々なことを体で経験することによって知識と成していくというもので、家康の場合、生涯続いた戦場働きがこれにあたる。現場で実践を積むということが、机上や耳で得た知識の裏打ちをしてゆくということになり、家康の天下取りの方法論を補強してゆくことになった。
 もう1冊。既に400冊を超える著作(いやはや凄い量だね・・・)を出している中谷彰宏の本の中に「大人のスピード読書法」というものがある。そこにこんな一節が載っている。「成功している人で、本を読まない人はいません。」と。成功している人で「私、本を読まないんです」と公言して憚らない人がいるが、それは「読んでいないふりをしている」か「読んでいるという意識なしに、本を読んでいる人」だというのである。(ううむ、いいことをいうなぁ・・・)
  家康の話といい中谷氏の説といい、改めて読書というものについて考えさせられた。(奥が深いなぁ・・・)