潔さ

 昨日、平成の米騒動について触れたが、57年前の10月11日は、戦後の食糧難時代に己の職責に真摯であったがために飢え死にした東京地裁の山口判事の命日である。彼は闇取引を裁く法の番人として闇米を食することを潔しとせず、栄養失調になって死んでしまった。壮絶な死である。
 地裁判事と言えば上等な職種であるから、いくら戦後の混乱期だと入っても飢えて死ぬことはないはずだ。それでも都市生活者であるから自ら耕す田地田畑を持たず、どうしても縁故や闇米を求めざるを得なかった。配給米だけでは露命をつなぐことはできなかったのである。
 昭和22年から遡ること100余年、愛知県は田原でやはり潔い男が自ら死を選んでいる。田原藩家老で画家でもあった渡辺崋山である。蛮社の獄で幽閉された師の崋山の窮乏を思い、弟子たちが画会を開き崋山の絵を売りさばいた。そのことが林家(大学頭家)の耳に達し元々疎まれていた崋山は誹謗中傷の的となってしまう。このことを潔しとしなかった崋山は主君に迷惑をかける前に自決をして果てた。
 それに引き換え現在の上等な人々の浅ましさはいかばかりであろうか。国政を託されている政治家どもは己が保身に汲々としており、嘘、詭弁、前言取り消し、言いつくろい、おとぼけ、ごまかし・・・なんでもござれの厚顔無恥である。政治家どもは自分たちをサムライに例えるのがお好きである。江戸期の300諸侯とでも思っておられるのか、それならそれでいいので責任を取る際には、江戸期同様腹を切ってもらおうじゃないの。スッパリと。
「政治家に 飲ませたいのは 爪の垢 判事、崋山を 少し見習え」(おあとがよろしいようで)