心象

 昨夜、寺田寅彦随筆集を読んでいて不覚にも涙ぐんでしまった。「昼顔」という作品だ。寅彦の子どもの頃の思い出を書いたごく短い文章だったが、文中の「砂山の頂まで登る事ができなかった」というフレーズが琴線に触れた。
 昔、友人の家族とうちの家族とで旅行にいったときのこと、旅先に小さな公園があってその公園の中央にコンクリート製の3メートルばかりの小山があった。両家族の子どもたちはその小山で遊びはじめた。遊びと言っても代わりばんこに頂上まで駆け上がるという単純なもので、「何が楽しいんだろう」と思いながら眺めていた。それでも子どもたちは大はしゃぎで小山に登ったり下ったりしている。何度目かの長男の番になったとき、私は、走って小山に向かう長男(7)の体をつかまえて登山を阻止してしまった。その隙をついて友人の子どもが小山に駆け登って頂上を制したのだ。それをみた長男は泣いてしまった。
 未だにそのときそれほどひどいことをしたとは思えないのだが、子どもには子どものルールがあって、それを、突然、理不尽な力で邪魔されたので悲しかったということなのだろうか。
 長男は大学へ進学し上京している。先日も新宿で食事をしたがべつに屈託はなかった(あたりまえか・・・)。それでもあの時のあのシーンを思い出すと、私の胸は少しだけ痛むのである。
 こんなんでは絶対に児童虐待などできないな、と思った。

 寅彦の随筆を読んで十年以上も前のささやかな風景を思い出した。児童虐待が後を立たないが、親のイマジネーションの欠落というのも大きな要因ではないだろうか。司馬遼太郎が言っていた。「イマジネーションを壊すのはテレビです。テレビなどあまり見ないほうがいいです」今の親どもは生まれて以来どっぷりとテレビに浸かっている。テレビ人間に脳裏にイメージを結ぶなどということは不可能に近いのではないか。(ということで最近テレビを見るのをやめたのでした)