唯我独尊

 最近、好んで政治屋の伝記、自伝を集めている。鳩山一郎春日一幸中曽根康弘後藤田正晴、変わったところで玉置和郎。県知事もある。愛知県知事の桑原幹根。市町村では岡崎市長だった中根鎮夫、清洲町長の林建伸なんてのもある。
 これらの本を眺めてみて、思うのは、結局、政治屋なんてものは時の運、場所の利だけなんだなぁ、ということだ。
 例えば司馬遼太郎の変わりは誰にもできないし、松本清張の代筆は誰にもできない。司馬と松本という存在がなければ、国民は文学的大損失を被っていただろう。ところがあの時の総理大臣が鳩山でなかったら、あるいは中曽根でなかったらどうだっただろうか。その時、誰が総理大臣であろうと国政は大きな変化はなかったろう。かなり小粒な例だが小渕優子などは本人に政治の資質があるとか、本人に国家国民を思う熱情があるとかそういうことではなく、群馬5区の土建屋や権益に群がる爺様どもの都合で立てられた御輿でしかない。御輿はなんだっていいのである。考えてみれば父親の小渕恵三にしたって、たまたま自民党という村の長老の意向で祭り上げられただけの人物で、残念ながら大した政治家ではなかった。それは森にしろ橋本にしろ大差はないわけで、生まれた家(場所)が大きく影響したことは否定できない。そういう意味では裸一貫から首相にまで上り詰めた田中角栄やヤクザから身を起こした浜田幸一のほうが政治家としては上等に思える。
 政治家の自伝(鳩山、後藤田は他者の書いたノンフィクション)、手前味噌で実に面白いですぞ。