為政者の明暗

 天明3年7月20日のことである。天明の飢饉の最中であるにもかかわらず、陸奥国弘前藩では、役人の横暴と商人の米買占め売り惜しみが横行し、このことに端を発して、飢えた農民数千人が青森湊に押しかけ米屋を打ち壊した。この後、打ち壊しは、鯵ヶ沢弘前にも飛び火し藩は大騒ぎとなる。この飢饉で弘前藩は餓死、病死などで13万人の死者を出している。この数字が、時の藩主津軽信寧(のぶやす)の失政にによるものであることは間違いない。このころの奥羽は全般的に農民への貢租の収奪が限度を越えており、弘前藩に限らず農村が疲弊していた。そこに天候不順が重なって、この悲劇が奥羽全域で発生した。
 この状況下にあって、同地方で一人の死者も出さなかった藩がある。上杉鷹山米沢藩松平定信白河藩である。地獄のような奥羽にあって奇跡のような話だが、飢饉や災害に備えて米や銭を貯えておく「備荒貯蓄」という制度を藩主主導で進めていた結果であった。名君を戴いた国がいかに安全かという好例である。
死者数かたや13万人(一説には20万人とも)、かたや0である。名君と暗愚の藩主がまさに明暗を分けた。
 さて、現在である。年間3万人の自殺者があり、交通事故では8千人を越す死者があり、刑法犯罪は370万件発生する国の、為政者ははたして上杉鷹山なのだろうか、あるいは津軽信寧なのだろうか。