いつまでこだわってまんねん

 朝日新聞「声」欄に、「『女性と土俵』議論深めよう」という投稿があった。太田大阪府知事が知事杯授与で、土俵に上がりたいと駄々をこねたあの愚挙を「問題提起」と言い、「『差別対伝統』を軸とした議論の構図は最初から何ら変わらない」と言う。
 今まで、こういった不毛の論理でどれだけの伝統が抹殺されてきたことか、太田知事や田嶋陽子に代表されるフェミニストのお陰で、美しい日本文化がどれほど壊滅的な被害にあってきたことか。
 伝統というものには確かに不合理な部分もある。それでもそこも含めて伝統なのである。そこをまず理解しないと伝統は、民族、社会、団体の精神的在り方の中心に成り得ない。ある種のおおらかさがないと、伝統などというものは生き残れないのである。
 例えば、渥美清に代表される四角い顔の人たちが、「能舞台は四角いが、あの形は我々の顔に対する侮辱である」と主張したらどうであろう(しないけどね)。能舞台を三角にするのかね。
 歌舞伎を女が演じてはいけないという禁止令を江戸幕府が出したのは1629年である。それ以来女は歌舞伎の舞台に立てない。これなんか太田知事はほっておいていいのかな。江戸幕府に抗議すべきではないのか。
 能舞台は四角い。歌舞伎役者は江戸幕府の禁令を未だに守っている。それが伝統なのである。
 フェミニストは言う。男と同じ土俵には上がりたい。だけど地下鉄は男と同じ車両には乗りたくない。これって逆差別ではないのかね。各地の鉄道、地下鉄では痴漢や酔客の嫌がらせから女性を守るという大義のもと「女性専用車両」を設置している。でもね、男にだって、清潔な男はいるし、酔客の傍若無人な態度やあの独特の甘ったるい臭みには閉口している。それにKABAちゃんやおすぎはどこに乗ったらいいんだ。
 それでも私は「土俵女人禁制問題」について、前向きに考えている。まず相撲を女性に開放しよう。土俵上で女性も戦うことができるのである。だからまわしだけは伝統を守らせてほしい。きっと江角マキコのまわし姿はほれぼれするくらい格好いいだろうね。グッチのブランド締込みの年金山と高見盛の一番なんか見ごたえがありそうだ。「肩透かしで年金山の勝ち〜」あるいは「押し倒して高見盛の勝ち〜(ムフフ)」凋落する相撲人気も一気に盛り返すに違いない。