大学教師考2

 ある自治体が郷土史の編さんを進めている。その内容を中学生程度に照準を合わせて書くよう、執筆者に依頼をしたという。結構なことじゃないの。その姿勢やよし。
 ところが郷土史の執筆を依頼された大学のセンセは、それがお気に召さない。郷土史とはいえ、「それは自分の作品である」と、勘違いしておられるセンセがいるらしい。確かに早稲田のベテラン教授で、「最近の著書・論文」に20年前の論文を挙げていたという怠惰なおっさんがいたというから、そうはなりたくないのだろう。忙しいセンセたちにしてみれば、「最近の著書・論文」に「書いておりますぞ!」と胸を張って掲載したいから、「中学生レベルの平易な文章で書けるか」という反論になるのだと思う。小難しい専門用語を駆使して、分かりにくく書かなければ井の中の専門バ家諸氏に評価してもらえないからね。
 でも、この考え方は根本的に間違っている。「郷土史は誰のものか」という視点がセンセたちには欠落しているのだ。「郷土史」はもちろん、郷土に住む人々のものであることは言うまでもないし、そもそも誰の金で作るのかということを考えてほしい。原稿料をもらって書いている以上、編集方針には従うべきだし、もし異論があるなら執筆を断ればいい。「郷土史」は、次の世代を担う子どもたちを育てるものでもある。子どもが読めなければ、意味はない。どこをどう突付いたってセンセたちは「中学生が理解できる内容」で書かざるを得ない。
 だいたい郷土史の執筆程度で自分の実績をつくろうというのがおこがましい。「研究成果」も大事だろうが「地域教育」のためだと思って、がんばってくださいよ。
 カリスマ受験講師の細野真宏が言っている。
「そもそも大学教員は『研究』だけに頭を使いたい人たちである」
「大学教員の多くは、『教育者』ではなく『研究者』でありたい」
 だから「地域教育」に興味を示さないんだろうね。
 こんな連中に「大学教育」を任せておいて大丈夫なのかなぁ、専門バ家に教わると、教え子たちもやっぱりバ家になりそうな気がするんですけど・・・