落語会

 昨日、地元で落語会。二つ目の桂鷹治と春風亭柳橋師匠が高座に上がる。中入りをはさんで4つの噺を聴いた。
 まず鷹治が「つる」。
 隠居のところに八五郎がやってきて、「なんで鶴は鶴というのか?」という疑問を隠居にぶつける。知ったかぶりの隠居は、「昔は首長鳥と言っておったが、唐土(もろこし)のほうから雄の首長鳥がツーッと飛んで来て松にとまった。あとから雌の首長鳥がルーッと飛んで来て、それからツルと言うようになった」などといういい加減な話をして、それを八五郎があちこちに行って吹聴すると言うような噺。 鷹治、まくらは地元ネタを使って笑わせていたが、肝心の噺のほうはまだまだ硬いねぇ。真面目さは伝わってくるんだが、もうひとつこなれないと真打は見えてこない。といっても、前座から二つ目に上がったところだから、これからが修行なんだけどね。頑張ってほしいものだ。

 次が柳橋が「小言幸兵衛」でご機嫌をうかがう。世話好きだがのべつ小言ばかり言っている大家が主人公である。朝、お灯明を上げて念仏を唱えるところからはじまる。貸札を見て「搗き米屋」や「仕立て屋」が訪ねてきて一悶着あるのだが、柳橋は念仏のところだけで30分もたせてしまった。根は良さそうなのだが、念仏の途中でチラチラと顔を見せるいじわるジジイの一面。小言を言っては、また「なあまあだあ〜」と念仏に戻っていく仕草で笑いを取る。桂枝雀の言った「緊張と緩和」がうまく融合していた。最初は大うけだったが、その回数が多かったのと、戻り方が単調だったので笑いは減っていく。もう少し工夫があれば笑いが持続すると思う。

 中入り後、再び鷹治。
 ネタは「堀の内」。古典では、そこつ者がそこつを直すために堀の内のお祖師様へお参りに行く……という噺なのだが、鷹治はのっけから浅草観音にして噺を端折っている。それはそれでいい。客の気が短くなっている昨今では、余分な描写は演じきれない。要点だけをポンポンとテンポよく並べるのも技術である。噺はお参りに行く途中の失敗、帰って来ての失敗、子供を銭湯に連れていっての失敗などがあって、どれもがクスリと笑える話で「そこつ噺」の代表的なものである。
 高座に上がった時にめくりが替わっておらす、それをうまくさばいてまくらに接いでいったのはなかなかうまかった。噺はまだまだ練りが足りない。これからの精進であろう。

 トリは柳橋の「妾馬」(めかうま)である。大名噺の大ネタを掛けてきましたぞ。博打が大好きで年中ピーピー言っている八五郎。その妹お鶴が大名に見初められて御殿に上がる、そしてトントントンと八五郎が出世していくという目出度い噺である。なにしろ登場人物が多く、主人公の八五郎、妹の鶴、母親、大家、殿様、三太夫、門番などそれぞれ身分、個性を持っている役柄をどう演じ分けるかが見所にひとつとなっている。そこは真打で経験も積んできているのだろう。柳橋はみごとに演じ分けた。噺も手堅くきっちりとまとめあげた。
 ただ、せっかく鷹治が「つる」をのっけにやったのだ。それをネタに使わない手はない。ワシャなら、八五郎が御殿で殿に謁見の場で、同席するお方様の鶴を見つけたときに、呼びかける際に「つーーーるーーー」と鷹治の仕草をまねてやって見せ、「どこかで見たような仕草ですがね」とか少し挿めばドカンと笑いが取れると思ったが、柳橋はまじめな落語家であった。喬太郎や鯉昇ならそんなおいしいネタをつかわねぇわけがねぇ。間違いなく噺を変えてやってくる。わずかなさじ加減のようなことだが、ここが噺の構成力を高めるのである。風貌的にも、声もいいのだ。これから枯れはじめていい師匠になっていくなんてこともあるので期待をしていきたい。

 あ〜おもしろかった。