地震対策の遅れ

 勝谷誠彦さんに教えてもらった。
 朝日新聞の「日曜に想う」が、熊本地震の当夜のことに触れている。
 総務省から出向していた官僚が、熊本県の総務部長だった。その人が任期を終えて東京に戻ることが4月中旬に決まった。その送別の宴の直後に最初の大きな地震が熊本を襲う。総務部長は、まだ現任なので、県庁に馳せ参じた。その時の談である。
「エレベーターは止まっていた。階段を駆けながら最初の後悔をした。何で県の災害本部を10階にしたのか!」
 この話を読んで「えええ!」てなもんですわ。災害対策本部はせいぜい3階までだと思っていた。そもそも災害対策本部は、野戦司令部と同じである。それが建物の10階にあるのでは、迅速な対応ができないし、建物自体に被害が出ていれば、落下物や瓦礫が階段や通路を塞ぎ、そこまで行くのに時間がかかりすぎる。あるいは行けないかもしれない。
「階段を駆けながら最初の後悔をした。何で県の災害本部を10階にしたのか」
 総務省の官僚ですらその程度の認識だったのが、そら恐ろしい。続けて、こう言う。
阪神、東日本の両震災で得たマニュアルだけでは対応できない事態がある。生の一次情報をとること、顔の見える形で関係者と意思の疎通を図ることが大切だと知りました」
 おいおい、そんなことを総務省の役人が言ってしまって大丈夫なのか。総務省は消防防災も管轄している。その役所の人がそんな認識では困る。さらに迷走は続く。
「ある熊本市の小学校の避難所の例です。校長先生が先導し、普段から学校運営で協力関係にあった自治会長らが支えた」
 災害時に地域の力、自治会・町内会の力がどれほど有効なのかは、それは阪神淡路でも、中越でも、能登でも、東日本でも、すべて実証済みである。ワシャの周辺では、自治会・町内会を組み込まずに災害対応を考えることなどあり得ない。少なくとも中越地震以降、霞が関はそんなことは当然に認識していることと思っていた。今さら、総務省のお役人に「熊本で気づかされた」と言われてもねぇ(苦笑)。おそらく「日曜に想う」で官僚の語ったことは、すべて中越以降に検証され、意識の高い自治体では実践されてきたことなのである。談の最後はこう締めくくられる。
「危機に際し、行政のマンパワーには限界がある。住民の自主運営でそれを補ってくれれば、役人がもっと全体のことや先のことを考えられるはずです」
 まさに「自助・共助・公助」のことではないか。中越地震からわずか12年、すでにそんなことも忘れてしまったか。この官僚が体験したことは、すでに山古志村長島忠美衆議院議員(当時は村長)が体験している。長島氏は災害後に講演や著書を通じて語っている。その話を聞けば、読めば、追体験は可能である。
「日曜に想う」の体験談に今さら感が漂うのはワシャだけだろうか。