小野田寛郎さんがお亡くなりになられた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140118-00000024-sph-soci
また気概のある素敵な日本人が彼岸に旅立った。小野田さんにはもっと長生きをしてもらって、戦争の真実を後生に語り残していただきたかったなぁ。
小野田さんの著書に『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局)がある。その中にルバング島から帰国し入院していた時のエピソードがある。
《入院中、田中内閣(当時)から、お見舞金をいただいた。
記者会見で金額は「百万円」だと教えられた。
――小野田さんは現在の貨幣価値をご存知ですか。
「戦前の千倍から千三百倍でしょう」
――何に使われますか?
「靖国神社に奉納します」
こんな場でお金の使途まで聞かれ、内心穏やかでなかった。私は会見場のテーブルにお金を置いたまま、病室へ引き揚げた。》
この失礼な記者とのやりとりが報道されると、左巻きから「靖国へ奉納することは軍国主義にくみする行為だ」とどっと抗議の手紙が舞い込んだそうな。この愚行に対して小野田さんはこう言っている。
《なぜ、祖国のために戦って命を落とした戦友に礼を尽くしてはいけないのか。私は生きて帰り、仲間は戦死した。私は戦友にお詫びし、心の負担を少しでも軽くしなければ、これからの人生を生きていく自信がなかった。》
この後に小野田さんはタイトルの「散る桜 残る桜も散る桜」を使われて、「そんな心境で30年の戦場を過ごしてきた」と言われる。
この本を出版するに当たり、小野田さんは難色を示されたそうだ。
「何を語り、何を書いても、誰一人証人がいない30年だったから」
証拠のないことは言いつのっても意味がないことを知っておられた。「私の存在が証拠です!」なんていうおばあさんもいるようだが、それはまったく証拠にはならない。おっと、つまらない方に筆が走ってしまった。小野田さんであった。
小野田さんの周囲は、それでも小野田さんの証言や記録が必ず人のためになることを確信していた。重なる説得で、小野田さんはようやくペンを取られた。それは中日新聞や東京新聞に連載され、その後、単行本として発刊された。
その巻頭に「阪神大震災」という章がある。ここで小野田さんは「大自然の力の前で、人間が作り出した近代文明とはなんともろく、頼りないものなのか」と諦観しておられる。フィリピンの厳しい自然と折り合いをつけなければ、すぐに「死」に直結する生活を30年も続けてこられた方の言だけに、これは重い。
この本は平成17年の6月にネットで手に入れたものなのだが、購入した直後に読んで以来、昭和史の棚の中に納まったままだった。久しぶりに出してきたのだが、見てみれば表紙裏に小野田さんの毛筆でのサインが入っているではないか。おおお……。
本を卓上にきちんと置き直し、深々と敬礼をしたのであった。
奇しくも小野田寛郎さんの訃報が回ったのが1月17日であった。日本を愛し、日本を憂慮し、日本のために30年を戦いぬいた戦士はさわやかに旅立っていった。合掌。