俳優について

 先日、中京テレビの「シューイチ」という番組に、2人の若い女性タレントがゲストで呼ばれていた。一人は多岐川裕美の娘で、もう一人は夏樹陽子の娘だった。冒頭の二人を紹介するところでのことである。アナウンサーが二人の母親のことを「大女優」と形容した。その瞬間、ワシャはテレビの前でこけましたぞ。
 多岐川裕美さんも夏樹陽子さんも素敵な女優である。お二人とも往年の美人女優である。だが、はたして「大」を冠するほどの女優だっただろうか。
 高峰秀子原節子杉村春子吉永小百合浅丘ルリ子田中絹代あたりで始めて大女優と呼べるのではないか。
 おそらく多岐川さんも夏樹さんも、このラインナップに肩を並べようなどと思ってもおられまい。頭の悪いアナウンサーがおべっかで「大」をつけた程度のことだろう。
 
 歌舞伎の世界にもいろいろな俳優がいる。人間国宝や名人と呼ばれる役者もいれば、座頭、名題役者、名題下といろいろな立場・階級がある。名題下が一番下のように見えるが、これもいろいろあって、専門職の立師から馬の足まで、それぞれが舞台の肝心な部分を担っている。人間国宝が敬意を表する技量をもった名題下だっているんだ。
 舞台には、人間国宝も必要だが、馬の足だって重要な役である。全部が揃って初めて舞台が成立する。それは映画、ドラマでも同じことだろう。
 多岐川さんは「鬼平犯科帳」で、平蔵の妻の久栄を演じて美しかった。あのドラマになくてはならない人である。
 夏樹さんと言えば「大江戸捜査網」で風車の弥七ならぬ風車のお菊が綺麗だった。
 時代劇に登場したいい女の中でも、二人はかなり上位に入ってくるのではないだろうか。そういった意味からも、お二人とも日本映画やドラマにおいて大切な女優であることは論を俟たない。
 だから頭の悪いアナウンサーが持ち上げたつもりで貶めるなということ。

 先週のBSジャパンの「土曜キネマ」で木下恵介監督の「二十四の瞳」が話題に上がった。その時に評論家の芝山幹郎さんがこんなことを言っている。
「12人の子供たちが素人だったことが、映画の大成功につながった。こまっしゃくれた演技をしなかったことが良かった」
 確かに、木下「二十四」は子供たちの存在感が輝いていた。子供たちの自然の演技がこの名作を創ったと言っても過言ではあるまい。もちろんこの映画が主役の高峰秀子の存在がなければ成立しないことは理解している。それでもなお、素人の子供たちの存在感は大女優の強い光に優るとも劣らない。

 平成23年9月に、俳優の香川照之が九代目の市川中車を継いだでしょ。明治末期から大正にかけて、名人と言われた七代目の中車が活躍していた。この人、なんの門地もなく、名古屋あたりの中役者(並び大名、軍兵、捕手)あがりながら、歌舞伎座で座頭までつとめるほどの看板役者になったものだ。この中車が筆まめな人で、『中車芸話』なるものを残している。その中に、こんなことが書いてある。
《私が仕込まれた頃の子役というものは、こまっちゃくれて器用なことをすると頭から嫌われてしまいました。つまり子役はどこまでも子役らしく、かわいらしくするのが本格で(中略)どっちかといえば生意気にならないように、少し間延びのするくらいが、かえっておっとりとあどけなく見えるものなのです。》
 これは、先に書いた芝山幹郎さんの発言と同じことを言っている。

 NHKの連続テレビ小説ごちそうさん」が始まった。初回は主人公のめ以子の子供時代である。小学校低学年のめ以子(この名前もなんだかウザったいなぁ)を演じる子役の演技が鼻につく。芦田愛菜流のオーバーな演技で、多分に愛菜の映像を見せて親だか、プロダクションの社長だかが演技指導をしたものと推察できる。
 こんな演技をさせていると、《子供の性根のおきどころは放り出してしまって、本人の腕いっぱい器用にも利口にも、動けるだけ動かせて見せる大向こう受けをねらうようなやり方は、結局小器用に悪達者に、小さくまとまってしまうわけで、しょせん将来大きい役者にはなれないもの》と七代目中車は手厳しい。
 
 芦田愛菜をはじめ、愛菜に続けと切磋琢磨している子役たちよ。多岐川由美さんや夏樹陽子さんのような存在感のある女優になるためにも、小器用な演技はつとめて避けたほうがいいと思う今日この頃だった。
 思い付いたことを適当に書いたのでまとまらない。残念。