福島第一原発は卑怯者の人災である その3

(上から続く)
 さて、市の担当者は通産省出先機関に掛け合った。せめて、病院の前だけでもインターロッキングを替えてでもフラットな状況に変更したいと申し出た。しかし、門前払いをくらった。
 武田さんと同じである。一度、国が許可し検査まで済んだものの形状を変更するということは、国の判断にミスがあったことを認めることになるので、「罷りならぬ!」ということなのである。そのためにどれほど住民が迷惑を被ろうと、そんなこと国の役人のあずかり知らぬことなんですね。
 結局、車椅子の方の安全な通行を確保するために、インターロッキングの目地の溝をコンクリートで埋めたんですが、こちろんそれは国のあずかり知らぬことで、市町村が勝手にやったことにされた。もちろん、国の役人は、工事終了直後に一度だけ検査に来て以降、一度も来ませんから現状を知りませんがね。
 一事が万事、そんな調子で、そんな話は地方に山ほど転がっている。武田さんの話した事例もその一つであり、今回の福島第一原子力発電所での大事故も、国の無謬主義、企業のコスト優先の産み出した人災であるということは間違いない。
 ワシャは基本的に原発に反対している。サヨクではないが反対の立場を貫く。それは原子力行政が、こんな無謬主義、コスト優先主義の上に乗っかっているからである。武田さんはいいことを言った。
原子力発電の安全は技術ではない。技術はすでにある。問題は動かす人の覚悟である」
 この「動かす人」というのは、現場で高いリスクを背負いながら闘っている担当者のことではない。原子力行政そのものを動かしている官僚、企業人、学者のことである。てめーら、きっちりと責任を取らんかい。