樋口一葉から その1

 11月23日は一葉忌である。明治29年(1896)の今日、本郷台地の西の崖下、本郷丸山福山町で24年の生涯を閉じた。死因は肺結核、生活は貧乏の極みにあり、森鴎外が騎馬で棺側に従いたいと申しでたが、一葉の妹が、あまりに貧弱な葬儀ゆえに断ったというエピソードが残っている。
 同時期に本郷台地の反対側の根岸に正岡子規が住んでいた。子規もまた病んでいる。前年の明治28年、日清戦争に記者として従軍し、帰国の途中の船中にて大喀血をして、そのまま病床についてしまった。
 一葉と子規の住居は直線で2000mほどのところである。近い場所で明治を代表する文学者が苦しんでいたわけだ。
 
 この頃、子規が日清戦争を見物に行ったくらいだから、日清戦争の時代で、その後の日露戦争に備える時期でもあった。
 1894年、朝鮮全羅道で農民反乱が起きる。これを鎮圧するために日本と清が出兵をする。農民兵の鎮圧は3か月ほどで完了した。本来は鎮圧をもって兵を引くのが当然なのだろうが、日本はロシアの南下を恐れている。虎視眈々と朝鮮半島を狙っていることを知っている。このためにどうしても朝鮮を日本とロシアの緩衝帯にするべく、朝鮮内政に影響を及ぼしたいと考えていた。
 もちろん朝鮮の宗主国である清がそんな日本の思惑を許すはずがない。ロシアに仲介をたのんで日本に撤兵をさせようともくろむ。
 ここが清の甘いところだった。昔から支那王朝は中華思想で周辺国をさげすんできた歴史がある。日本についても「倭」と呼称してバカにしてきた。見下してきた日本に、自国の属国である朝鮮の内政を共同改革しようと持ちかけられたことが、そもそも腹立たしい。そこでロシアを引き込むのである。清は目の前の犬を排除するために、腹を減らした大ヒグマを庭に入れた。そして「犬に庭から出ていくように言ってくれ」と頼んだのである。
 そもそも日本はヒグマの南下を防ぎたいがために挑戦に影響力を持ちたいと考えているのであって、清は自らの枕元にもっとも恐ろしい敵を誘い込んでしまった。中華思想を後生大事にたてまつる老大国は「面子さえ保てばいい」と考えた。
(下に続く)