天籟にきけ

 もうこの「体制」には国際ルールとかビジネス上のルールが通用しないようだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100613-00000594-yom-int
 自分たちの「体制」を延命させるためには、なんでもありらしい。自分が生き残る(体制維持の)ためには、なりふり構わずどんなことでもやってしまう。生命力は感じるが、理性や品性が感じられない。

 昨日の「荘子」は面白かった。物凄い化物が出てきた。「内篇大宗師篇五」である。
 子輿(しよ)という人が俄かに病気になった。それは奇病だった。
《曲僂背に発し、上に五管あり、あごは臍に隠れ、肩は頭より高く、句贅は天を指す。》
 どんな人か「荘子」の解説を見てみましょう。まず、「背中がひん曲がり」とあるから酷いセムシなんでしょうね。「内臓が頭の上にある」って言うんだから、わけが解りませんが、恐ろしいことになっている。「あごはヘソのあたりに隠れ」ってセムシだからそうなるのかもしれない。「両の肩は頭より高い」ってジャミラのような有様になっているんでしょうな。
 しかし、子輿はまったく動じるところがない。
「天の力が私の左手を鶏に変えるなら」って、手が鶏になったら大変ですぞ。しかし、子輿はめげない。「そうなったら夜明けの時を告げる係になろう。そして右の手が変形してはじき弓になったなら、それで鳥を撃って焼き鳥にして食っちまおう」う〜む、子輿さん、なかなか根性のはいった人だわさ。
 そしてこう続けて言う。
「尻が車輪になり、心を馬にするというなら、私はそれに乗るだろう」
 尻が車輪って、もう想像もつかない状態だが、それでも子輿さんはポジティブに物事を考えている。
 今の状態を天籟として受け入れることで、定めに順応することができれば、享楽の感情は心に付け入ることができない。天籟に身を任せてあるがままに生きて死ぬ、これ以上の幸せがあろうか……。
 少しばかり付け加えたが、子輿さんの口を借りて荘子は言っている。

 彼の国は、儒教思想をベースにしていると聞く。う〜む、儒教ではだめですな。老荘思想にすれば、もっとラクに生きられると思うがいかがかな。