能登半島地震 その2

(上から読んでね)
 ここから歴史の話になる。7世紀中葉、大和に中央政権が形成される。政権は地方制度を充実させるために「国郡制」を整備し、地方支配を強固なものにしていった。このとき能登越前国に属しており、その後、養老2年(718)、に羽咋能登、鳳至(ふげし)、珠洲の四郡を割いて能登国が建置された。これが能登の始まりと言っていい。
 能登日本海に突出しているため奈良から平安時代にかけて、渤海国(現在の中国東北部に8世紀から10世紀初頭に栄えた王国)との交渉拠点になっていた。
平安末期には平家に押さえらていたが、木曽義仲挙兵の際には、能登の多くの武士がこれに呼応し平家に叛旗をひるがえしている。鎌倉時代には北条氏の支配を受け、室町期には足利一門の畠山氏が守護に任じられた。応仁の乱以降、畠山氏が七尾城を国都として戦国大名としての基盤を固めるに至った。しかし、重臣らが領国経営の主導権を領主家から奪い弱体化しているところを、上杉謙信に目をつけられあっさりと攻略されてしまう。その後、織田信長の拡大成長により、天正9年(1581)上杉勢は一掃され、能登は織田の分国になる。
 天正10年から実施された秀吉の検地により石高は21万石と決められた。駿河や相模よりよほど国力は高かったわけだ。
 そして現在でも農作物の稔りは豊かだ。ただ地元の人に言わせると、もの生りはいいけれども夏は暑く冬は厳しい土地柄だという。冬になれば月のうち4〜5日晴れればいいほうで、ほとんどが重く垂れこめた曇天なのだそうだ。だから住民性はとても忍耐強いと言われている。
 そんな地域を震度6強の地震が襲ったのである。はてさて現場はどんな状況になっておりますことやら。詳細はまた後日と言うことで、今日のところは失礼します。