山古志再生への軌跡(続き)

 長島さんの話の続き。
「災害というのは平等ではない。しかしそのことを共有しなければいけない」
「避難所を集落ごとにまとめた。これは正しい判断だった」
「私(村長)の携帯電話を村民全員が知っている。夜中にお年寄りから電話が掛かってきて『まだ、起きているのか、もう休め』と言ってくれた」
 このお年寄りが長島さんの睡眠を邪魔しているようにも思えますが……
「災害の当初から避難生活の限度は2年だと思っていた。2年の期限を切ることでやれると思った。実際に2年を目途に幹線道路周辺では95%の住民が帰村している」
「雪が融けた大地に裸足で立つことが好きだ。大地の暖かさが足のうらから体の中に入ってくるのがわかる。このときが雪国に育ってよかったと感じるときである」
仮設住宅というとマイナスのイメージしかないと思われがちだが、『仮設住宅はいいぞ』という意見もある。過疎の山間部にあってコミュニティは徐々になくなっていたが、仮設住宅で物理的な距離が近くなったことでコミュニティも戻ってきた」
「また狭い仮設住宅の生活で嫌が応でも家族は顔を突き合わせずにはいられない。このため子どもたちとの会話が増えた。地震のお蔭で娘と心がつながった」
「被災したからといって、そのことを悔やんでいてもしかたがない。おかれた状況を受け入れて、その状況で精一杯にやっていくしかないじゃないか。嘆いたって、叫んだってなにも変わらない。前に向かって進んでいくしかないじゃないか」
「牛が1200頭残された。牛の避難に1億5000万円かかるということだった。これは牛の出荷金額を上回った。普通ならできない。それでも『命』を助けようと村人たちが頑張った」
「災害時には費用対効果を考えてはいけない。コストと成果を比較すればそんなことに手を出すべきではない、ということになる。しかし実際に牛の救出作戦を実行することで村人が元気になった。目に見えない効果だが実施してよかった、ということだ」
 長島さんは心をしぼるようにして話をされた。1時間半はあっというまに過ぎてしまった。地震の話はあちこちで聴いたけれども、学者さんの話は被災地を外野から眺めただけの話が多く、当事者としての長島さんの話には遠く及ばなかった。
 主催者に確認したところによれば、ほとんど弁当代程度で東京から来てくれたそうである。こういった人物に政治を担って欲しいものだ。