信長死して竜馬を助く

 天正10年(1582)、織田信長が本能寺に斃れている。そして慶應3年(1867)坂本竜馬土佐藩船夕顔の船中で大政奉還建白策(船中八策)を起草した。この建白策がベースとなってその後の大政奉還、王政復古が展開していくことになる。この285年を隔てた英雄二人にまつわる事件は実は密接に連関していた。
 さて織田信長である。天正10年3月、永年の宿敵だった甲州武田氏を天目山で滅亡させ、残るは越後上杉、中国の毛利、四国長宗我部であった。当面、上杉は関東に展開した滝川一益越中から東進する柴田勝家に任せておけばよかった。中国の毛利攻めには方面司令官の中でも最強の羽柴秀吉を以って当たらせているが、瀬戸内海における毛利水軍の強さは地の利を得ている分、かなり手強かった。この水軍に対抗するため織田軍としてはどうしても阿波に本拠を持つ三好氏の協力を得なければならなかったのである。しかしその三好氏は土佐の長宗我部氏に圧迫されつつあった。このため信長は対毛利戦のために長宗我部に出兵せざるをえなかった。この長宗我部遠征軍の指揮官が信長の三男、神戸信孝であった。そして信長は信孝の後詰として四国に渡るつもりで本能寺まで出陣していたのである。
 ここで本能寺がなかったと仮定しよう。信長は自軍の主力を阿波から土佐に進駐させたことはほぼ間違いない。そして織田軍VS長宗我部軍の決戦が四国のどこかの野で繰り広げられただろう。結果として軍事力で長宗我部を遥かに凌駕する織田軍が長宗我部軍を殲滅していく。この過程で長宗我部侍の坂本竜馬の祖先は戦死するか、あるいは虐殺されるかしてその命脈を絶ってしまうだろうことは想像に固くない。つまり後世に竜馬を輩出すべき祖先が信長の四国進駐で死ねば、300年後に船の中で大政奉還を思いつく竜馬はいなかったということになる。
 故に信長、死して幕末の竜馬を助く、となるわけだ。