バカは馬鹿をみない、バカだから

 古来から正直な者は馬鹿をみることになっている。
 人の世というものはそういうふうに成っているのだ。
 信長を見よ。秀吉を見よ。家康など極悪人ではないか。己の感情や生き方に正直だった秀吉の妾や遺児たちは、大坂城の炎の中で無念の涙を飲んだ。
 歴史上、清廉潔白な偉人というものを聞いたことがない。名を成し、財を成すには「悪」でなければならない。「極悪」でなければ時代を動かす転轍機など握れるものではない。
 今、官僚が腐っている。政治家が腐っている。医師が腐っている。企業家が腐っている。産廃業者が腐っている。庶民は口を揃えてそう吠える。
 しかし、腐りはじめたのはなにも昨日今日のことではない。すでに大昔から始まっているのである。
 見よ。大化の改新を。歴史は常に勝者の側の論理で勝者に都合のいい言葉で書き残されているので、真実は見えないけれども、どうみても中大兄と鎌足が入鹿を騙し討っているではないか。
 正直だった菅原道真太宰府に流されて憤ったまま死んでいる。
 秀吉の作った政権に正直だった石田三成は、家康のどす黒い権謀術数にはまって刑場の露と消えた。
 当時は世論とか、国民の監視とかいうものは、当然のことながらない。だから、やったもの勝ちだった。その点、残念ながら現在の権力者たちは、質の悪いマスコミと被害者意識の強固な民衆に囲まれて、なかなか「悪」を行うことはたやすくない。だから時折、新聞紙上を賑わすことになるのだが、実は紙面に載るのは、本物の悪ではい。真の悪人は、そんな些事で尻尾は掴まれないのである。
 権力の中に入って生き残るには、ただ闇雲に「善」を振りかざすだけではだめだ。羊の皮を被って狼の牙を研ぎ澄ませる。そのくらいの芸当ができなくては、「権力」は握れまい。