思い出

 ワシャは学生時代からスキーにはまった。年間40日くらいは山に入っていたので、愛知県のスキーヤーとしてはよく通っていたほうだと思う。ホームゲレンデは岐阜県奥美濃だった。もちろん滋賀や白馬にも行ったが、当時、北信州のゲレンデは遠かった。車で日帰りのできる奥美濃は愛知県ではけっこう手軽なスキー場だったのだ。
 そこに常連の宿があった。宿といっても、最初は宿ではなかった。
 ワシャは鷲ヶ岳スキー場でスキースクールに入った。そこで1日スキーの指導を受けたのだが、この時の先生と意気投合した。スクールの終了後、「どこに泊まっているの?」と聞かれたので、「民宿○○屋です」と答える。
「遠いね」
「ちょっと距離がありますが車ですから」
「寝るだけだったら、オレの家に来いよ」
「え、いいんすか」
「いいよ、部屋空いているから」
 ということで、スクールの先生の自宅にタダで泊めてもらうことになり、寝るだけだったのが、朝晩の食事までお世話になってしまう。居心地もよかったし、もともと民宿をやっていた家だったので、大部屋がいくつもあって、その後、入れ替わり立ち代わり、メンバーとしては100人くらい、延べにするとどれくらいになるだろう、多くの仲間を連れて奥美濃に行って、そこに泊めてもらうようになった。
 何年目には、先生の親父さんが一大奮起をして家を改装して、ワシャら専用のスキーの宿を復活してしまった。
 宿を切り盛りするのは、先生のお母さんで、ワシャらは「オバサン」と呼んでいた。この人がいい人だったなぁ。ワシャのことを愛知県の長男と呼んで、かわいがってくれた。まだ若かったんで、宿で酒を飲んで暴れたり、柄の悪いスキーヤーと路上でもめたりするのだが、オバサンはいつも「そんなことをしたらダメや」と怒りながらも、最終的には許してくれたもんだ。優しかった。その宿がワシャにとっての第二の故郷のようになってしまうのだった。
 オバサンは、居間(その家のプライベートの部分)でワシャらが酒盛りをしているときでも、部屋の隅でにこにこして見ている。酒がなくなれば福井の酒「一本義」を持ってきてくれ、肴がなくなれば奥美濃の名産「ケーちゃん焼き」をつくってくれる。宴会が終わって、ワシャラが二階の部屋に引っ込むと、それから片付けをしていた。
 早朝、喉が渇いて台所に降りていくと、オバサンはもう朝食の用意をしているではないか。え、いつ寝たの?
 ワシャがもっとも尊敬する主婦は、このオバサンだった。10年もその家に通っただろうか。しかし、ワシャはオバサンの寝たところを見たことがない。
 オジサンは反対に昼間っから酒をかっくらっていつも寝ていた。起きているのを見るほうが難しいような人だった。それでバランスがとれていたのだろう。