エリートたちの黄昏 その2

(上から続く)
 現在、中央で民主党が戦っている「官僚」たちも秀才ぞろいである。その中枢は「東大法学部」というこの国で最高の学歴を持つ「現代の恩賜組」の秀才たちである。保阪さんは、唱和の大失敗をしでかした東條と、現在の小東條を比較して、極めて似ていると言っている。小さな東條英機がそれぞれの省庁で、「俺様は国家公務員?T種試験にトップで合格したエリートである。だから特別な教育など受けなくとも、すべて自分で独学すれば他人に勝ることなどわけもない」と思いこんで「無謬主義」に陥っている。己の能力を頼みすぎ、リアリズムから乖離してしまった秀才など害悪でしかない。
 かつての軍でも、現在の霞ヶ関でもそうだが、本当に優秀な人材は出世しないという構造がある。権力におもねり、失敗は他人のせいにして、出世のためなら自らの信念を平気で曲げられるような腰巾着しかエリートという階段を登っていかれないのである。だからピストルでの自決すらまともにできない東條のような阿呆が出現する。
 こういった小人秀才が権力を掌握するので、真に有能な人材が官僚組織から追放されてしまうのである。こういった事例は、戦前も戦後も枚挙に暇がない。
 阿南惟幾(あなみこれちか)という大将がいた。彼は昭和の始めから始まった軍の派閥争いに加わらなかった。そんなくだらないことに走り回ることの愚をよく判っていたのである。しかし、何らかの集団に入ってお互いの傷をペロペロと舐めあわないということは、異分子であると見なされてしまう。このため阿南大将は中枢から遠ざけられ閑職に甘んじることになる。
 これは現在の官僚組織でも同様だろう。優秀な人はきっと閑職にいる。本当に国の舵を取れる人財は、リアルに情報を分析する能力を持ち、人間や歴史に深い興味を持ち、勘働きの優れた人なんだろう。少なくとも、人間味を持たない官僚主義からは決して生まれない、保阪さんはそう結論付けている。