電車の中の些細なこと

 酔っていた。
 隣町からもどるJRの快速はそこそこ混んでいる。座席は満席だ。出口付近にもそれぞれ10人程度が立っている。その中にワシャもつり革につかまってドアにもたれ赤い顔して「ウィーップ」とかやっていた。
 時刻は9時過ぎ。ワシャが確認できる範囲の乗客18人中10人が何らかの活字を読んでいる。文庫6人、雑誌2人、新聞1人、携帯メール1人だ。ワシャの隣に立っている若者は文庫カバーをかけた分厚い文庫を読んでいる。むふふふふ、人の読んでいる本というのが気になりませんか。ワシャはめちゃんこ気になります。だからじわじわととの若者に方へにじり寄るのであった。
「右大臣」ページの左肩にそう書いてある。「右大臣?時代物か」と口には出さず、2〜3行を読む。
《三条が、西郷の渡韓を奏上すべき日は、この日だったのである。明治国家の歴史は、この三条のヒステリー症状的昏睡によって決定したといっていい。》
 あらららら、司馬遼太郎ではあ〜りませんか。それも『翔ぶが如く』、巻数は、前の方なんだが「何巻」とまでは断定できない。そう思った途端、ここが酔っ払いなのだが、思わず「司馬遼太郎ですね」と口に出てしまった。
 若者は驚いてワシャの方を見る。突然、見ず知らずのオッサンから声をかけられれば、そりゃ驚きますわなぁ。気まずい沈黙が流れた後、目的の駅に着きドアが開いたので、ワシャは謎の微笑を残してその若者の前からフェードアウトしたのであった。