備中の秀吉

 一昨日、本能寺で信長が殺された。この報せが明智光秀方の間者により毛利家へともたらされるはずだったのだが、備中吉備郡岡山県岡山市郊外)一帯を封鎖していた秀吉の網にかかってしまった。このあたりも光秀に運がない。
 この時、秀吉は毛利戦で備中高松城の東にある竜王山麓に布陣していた。対する毛利方城主は勇将清水宗治である。秀吉は堅牢な高松城に対して多大な被害が予想される力攻めを避け、水攻めという驚天動地の土木作戦に出た。城の南側を流れる血吸川の水を堤を築いて堰き止め城を水没させようというのである。う〜む、こんな作戦は信長も家康も思いつかない、というか兵法の既成概念の中にない。
 その奇抜な攻城戦の真っ最中に秀吉はこの情報を入手した。それが昨日のことである。一夜、信長を偲んで泣き明かした秀吉は、翌朝(つまり今朝のことになるが)、ケロッとして悠々と陣中の巡視をはじめた。その様子は浮島となった高松城からも、血吸川の対岸で手を拱いている援軍の毛利本隊からも遠望できた。その状況を見る限り織田勢(秀吉軍)にはいささかの変化も見られなかったのである。
 毛利方はこの秀吉のブラフに欺かれ、清水宗治切腹という不利な条件で講和をせざるをえなかった。早々に講和を済ませた秀吉は、光秀を討つべく尻に帆かけてしゅらしゅしゅしゅーとばかりに東へ向かったのだった。このあたりを司馬遼太郎の「新史太閤記」では次のように描写している。
《「あとはまかせた」
 と叫ぶなり馬に飛び乗った。本軍が、東へ動きはじめた。夜は更け、ふけきってすでに五日に入っており、刻は丑満(午前二時)を過ぎていた。秀吉は、濡れた。雨は風をともなっていた。その風雨が、万を越える行軍用の松明の白い煙を闇のなかで踊らせ、その白煙のなかで秀吉は何度もむちをあげた。》
 さすが司馬さん、見事な文章だ。