極端にはしる風潮 その2

(上から続く)
 これを当該市の状況をまったく知らない部外者がもっともらしく口にしてバッサバッサと袈裟懸けに斬りつけてくる。地元の事情もへったくれもない。地元の事情に詳しい市民はというと、逆に彼らは行政の仕組みが解らないから、なかなか口をはさむことが難しい。
 口八丁手八丁な職員が出てくれば、そつのない受け答えをして、やんわりと反論して、地元の事情を納得させ、この事業がいかに妥当性のあるものかを主張する。手馴れた感じの職員が登場し、早口でペラペラッと説明したときなど、誰も反論できずにそのまま「採択」となってしまうケースもあった。
 市民から無作為に選ばれた仕分け人は、元々行政の知識など持っていない。10分とか20分の短い間に早口に行政マン同士で交わされる行政用語てんこ盛りの質疑応答が解らない。なにがどう進んでいるのか理解できないまま仕分け作業が終了しジャッジが下される。
 ついこの間まで密室でごそごそと行われていた査定が、一挙に流行の手法として祭り上げられ、猫も杓子も「事業仕分け」、「事業仕分け」をやらざるんば行政にあらずってなことにもなりかねませんね。
 本当に日本人というのは、極端から極端にはしる民族性をもっているわいなぁ。

 極端といえば、このオッサンも極端だ。鹿児島県阿久根市竹原市長である。ついに自分の部下である市職員から、レッドカードを突きつけられた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100626-00000157-yom-soci
 竹原市長が民間から連れてきた課長級の数人を除いた全職員が署名した上申書が提出される。議会も敵、職員も敵、県も敵、マスコミも敵、そして一番の支えである市民すら乖離し始めている。もうこうなると裸の王様だね。
 竹原市長の理想はいい。しかし、短兵急過ぎるやり方、法律を守らないやり方は拙いだろう。「悪法もまた法なり」である。自らが希求する理想のためには、それを阻害する法律など破ってもいいんだ、ということではない。3万に満たない小さなコミュニティで流血革命をしてはコミュニティそのものが壊れてしまう。
 少しぐらい時間が掛かってもいいじゃないか。議員とも職員とも対話をして、諄諄と自分の理想を説くのである。そうすれば、市長の理解者も徐々に増えてくる。それこそが住民を大切にする「住民至上主義」ではないだろうか。市長と反対の意見を持つ住民もまた住民なのである。反対派を排除するだけでは物事は解決しない。ここのところが理解できないと竹原市長のやっていることは子供の駄々と同じレベルになってしまう。

極端にはしる風潮 その1

 夕べ、読書会。課題図書は、枝野幸男『「事業仕分け」の力』(集英社新書)。
 先週の土日曜日に、近くの自治体で、まさに「事業仕分け」が行われていたので、その成果も含めて喧喧諤諤の読書会になった。その議論も含めて、ワシャなりに「事業仕分け」について思うついたことを記しておく。
 まず、国で行われた「事業仕分け」なるものは、国にはそぐうのかも知れないが、地方自治体、それも基礎自治体にはそぐわないと思う。その理由は、基礎自治体の事業というものが住民に直結したものばかりで、もともと無駄な部分が殺ぎ落とされていることが多く切り込み幅が少ないということ、それに関係者が目の前にいるのである。あるいは5分もあれば、電話をすれば利害関係者がすぐにとんできて、なぜその補助金が必要なのか諄諄と諭す。その一人一人が首長の知り合いなのである。枝野さんや蓮舫さんが舌鋒鋭く切り込んでいくなどという芸当はできない。
事業仕分け」のパフォーマンスをやった某自治体では、40の事業が仕分け対象とされたが、廃止は4、それ以外のことごとくは継続あるいは事業の見直し、というものになった。関係者に話を聴けば、廃止となった4つの事業はスケープゴードとして俎上に載せられたもので、出来レースとは言わないが、かなりその手の匂いのするショーだった。
 職員のプレゼン能力の研修、ディベートの研修というならば一定の成果がみられたとは思う。しかし、効率的な仕分けが出来たとは到底思えぬ。某自治体は、「事業仕分け」のコンサルタントに何百万円かの委託料を払っている。そのコンサルタントは、全国の自治体で事業選別等の業務に携わってきた跳ねっ返りの目立ちたがりを選抜しチョイスをして送り込んでくる。もちろん彼らはその自治体の事情をまったく知らないから、原則論で仕分けてくる。
「市民から本当に求められているか?」
まず、必要性を確認する。
「市が本当にやるべき仕事か?」
国、県、あるいは市民自身がやるべきことではないのかと突っ込む。
「来年度、やるべきことなのか?」
 要するに緊急性の問題点を洗い出す。
「事業の内容、組織、制度などに改良の余地はあるのかないのか?」
以上の議論を尽くし、最終的に予算の妥当性を問う。簡単に言えばそれだけのことなのだ。
(下に続く)