博打はどこまでいっても博打じゃないの?

 朝日新聞の取材に対して阿武松部屋の元力士が、こう語っている。
「パチンコと同じ感覚だった。手持ちの現金がなくても賭けられるため、はまってしまった」
 合法、非合法の違いはあっても、パチンコも間違いなく博打だ。この元力士も、まずパチンコで博打の味を覚え、公営ギャンブルに走り、刺激と手軽さを求めて野球賭博などにはまりこんでいった様子が語られている。
「巡業中の北海道―青森のフェリー内で300万円負けた関取もいた」
「巡業中はやることがなく賭け事に興じる力士が多かった」
 パチンコ屋という賭博場が、街のあちこちに建って、派手な昇りでギャンブル依存症の人々を誘っている。力士たちが腐っていく素地は、元々出来上がっているのである。そしてこれは力士だけの話ではない。一般の市民がパチンコという名の博打にずぶずぶにはまり込んで、借金を地獄に陥っていることはよく聴くし、いたいけな子供たちがパチンコ屋の駐車場で煮殺されるニュースも毎年夏の風物死になりつつある。
 相撲取りの博打ばかりを論っている場合ではない。根本的なところを考えていかないと、この国の根っこの部分が腐ってしまう。
 博打について真剣に考えませんか。