上陸戦二題

 時空を超えて、6月6日に亞欧州大陸の東と西で大規模な上陸作戦が行われた。
 かたや1281年の日本である。和暦でいえば弘安4年、モンゴルに服属した高麗兵が対馬で大虐殺をした後に筑前志賀島博多湾)に来襲した。世にいう「弘安の役」である。
 すでに7年前の文永11年に第一波の蒙古襲来があった。元の皇帝フビライ服従要請に鎌倉幕府は頑として首を縦に振らなかったのである。このため14万の元・高麗の連合軍が北九州沿岸に殺到した。これに対して幕府の御家人たちが奮戦する。しかし、毒矢や火薬などという最新兵器を持つ大軍に、御家人たちはたちまち苦戦に陥った。多くの武士が討死し、戦線全体で日本軍は不利になっていく。やむなく日本軍は大宰府まで後退する。このために元軍は博多を占領し、日本列島における元軍の橋頭堡を確保することができた……はずだった。にも関わらず、元軍、博多に留まることを良しとせず、なぜか、船へともどってしまう。ここに神風である。大暴風に翻弄され14万の元・高麗連合軍は壊滅した。
 そして元の2回目の大遠征が弘安4年の今日である。しかし、この夏も暑かった。海水温度は高く日本列島の南方海上では猛烈な低気圧が発達していた。元・高麗軍はまたしても天然の暴威の前に撤退を余儀なくされたのである。

 下って第2次世界大戦のヨーロッパ戦線。1944年の今日、連合軍側の大攻勢が開始された。世にいうノルマンディ上陸作戦である。連合国側の艦艇2000、上陸用舟艇4000、飛行機11,000、兵員数155,000名にのぼる(20万人という説もあり)。こちらのほうには神風は吹かなかったが、イギリス海峡に面した上陸しやすい海岸という海岸に、上陸用舟艇を串差しにする鋸歯(きょしゅ)状防御柵50万セット、戦車を吹き飛ばすだけの威力を持つ円盤型地雷から兵士殺傷用のS地雷までありとあらゆる地雷500万個以上を海岸線に敷き詰めていた。守将は、ドイツ軍にその人ありといわれたロンメル将軍である。この人がノルマンディの総指揮をとっていればあるいは連合軍の上陸は阻止されたのかも知れないが、残念ながら名将は不在だった。連合軍の総攻撃の日、ロンメルはフューラー(総統)に会うためにベルリンにいたのである。
天佑により、連合軍は上陸に成功し、シェルブールやカーンなどドイツ軍が立て篭もるフランスの都市を攻めた。北フランスに反撃の橋頭堡を築くことができたのである。詳細は、コーネリアス・ライアン『史上最大の作戦』(筑摩書房)をご覧あれ。