司馬遼太郎が新選組のことを書き綴っている。締めて原稿用紙1750枚の大作名は『燃えよ剣』という。その中で、新選組のデビュー戦である「池田屋襲撃」ももちろん描かれている。ただし戦闘シーンは2ページだけ。並の作家なら、池田屋事件だけでも一章を割いて、近藤勇がどうの、土方歳三がこう活躍し、沖田総司がどう戦ったかなどなど、延々と書きつなぐだろう。
しかし司馬さん、そんな冗漫な文章は書かない。
《近藤は、敵が廊下に出てこないため、再び座敷に入った。宮部と、双方中段で対峙した。宮部も数合戦ったが、近藤の比ではなかった。面上を割られ、それでも余力をふるって表階段の降り口までたどりついたが、ちょうど吉田稔麿を斬って駈けあがってきた沖田総司に遭い、さらに数創を受けた。》
ここなんかも、新選組の大将の近藤と志士側の首魁である宮部鼎蔵の一戦である。「ドラゴンボール」は孫悟空とフリーザの闘いに4週を費やしたんですぞ。ところが、司馬さん、短い文章を4つ連ねただけで、緊迫した池田屋二階の決戦を描いている。その後は、池田屋そのものに未練を残さず、淡々と双方の犠牲者の数を並べて、この襲撃事件の凄まじさを物語っている。
志士側の犠牲者は、『幕末維新全殉難者名鑑』(新人物往来社)によれば15人が闘死、捕縛後に死んだものが9人。新選組の犠牲者は3人、周辺警備についていた幕兵からは十数名の死者が出ている。この数字から、池田屋事件の凄まじさと新選組の強さが知れよう。特筆すべきは、斬り込みの最初から最前線で奮戦した近藤勇、沖田総司、永倉新八である。彼らの強さは鬼神も恐れたに違いない。
残念ながら、池田屋で微傷も負わなかった近藤も沖田も、維新の世を見ることはできなかった。しかし、永倉新八だけは長命し、大正の御世まで生きた。その永倉に最晩年のエピソードがある。
北海道の小樽に隠棲した永倉は喜寿を迎えようとしていた。ある時、永倉は孫とともに繁華街に出て、地廻り数人に因縁をつけられた。腰を低くして謝っても許されず、永倉はやむを得ず突いていたステッキを正眼に構えたという。大正時代の76歳である。大翁と言っていい。老いさらばえたジジイがステッキを構えたとて、何ほどのことがあろうか。
しかし、地廻りは永倉に手が出せなかった。何百という修羅場を潜り抜けてきた永倉の本物の気迫を恐れたに違いない。
こんな話をしていると、あ〜、また四条河原町の「池田屋花の舞」に行きたくなってしまった。因みに昨日は地元の「花の舞」で呑んだくれていたんですがね。