山巓(さんてん)の寺

 司馬遼太郎の『濃尾参州記』にこんな文章がある。
《神社があり、そこが、六百年前、徳阿弥が逗留し、その後、婿として家をさかんにした松平屋敷の跡らしかった。その一段上が、尾根で、いわば山巓である。そこに浄土宗高月院があり、高い松の木が一幹(ひともと)あって、幹に枝がなく、はるかな青空を履くように梢だけ枝葉が茂っていた。》
 昭和44年だと思う。司馬さんは『覇王の家』の取材のため、夏の盛りに三河松平の山里を訪れている。ここで、手つかずの歴史の風景を目の当たりにした司馬さんは、「孤独な山僧に出会ったようだった」と高月院のたたずまいを書き残している。

 30年後、亡くなられる少し前に司馬さんはここを再訪している。ところが松平郷は、すっかり変貌していた。
 映画のセットのような安っぽい練塀が建ち、「天下祭」と書かれた大売出しさながらの旗が何本もひるがえり、テープに吹きこまれた和讃が、パチンコ屋の軍艦マーチのように拡声器から流されていた。豊田市が手つかずだった歴史に無粋な手をいれてしまった。しかし、司馬さん、豊田市が歴史の風景を壊した、とは言わない。
《ちかごろ妖怪のように日本の津々浦々を俗化させている“町おこし”という自治体の“正義”の仕業に相違なかった。》
と指摘するにとどめている。
 30年前の感動が大きかっただけに、30年後の失望はより深いものとなった。落胆した司馬さんが山を下っていくのが見えるようだ。

 その松平郷に昨日行ってきた。司馬さんの再訪から15年が経過して、安っぽい練塀も苔むし、風雪に汚れ、大売出しの旗も撤去され、それなりに風景に馴染んできた。確かに本物の歴史の景観ではないだろうが、おもむきはにじんできたと思う。
 高月院に続く参道は静謐だった。路肩に真っ赤な彼岸花が秋風に揺れているばかりである。

 ちなみに天保7年(1836)の9月21日、この松平郷で「三河加茂一揆」という騒動が起きている。松平郷滝脇で炉端に、土民の頭(かしら)が額を集めてひそひそと何事かを話しあっていた。「凶作のあおりを受けて高騰した物価を下げてもらうべい」と談合していたのだ。結論は「一揆」ということで決し、その夜、数十人の松平土民が蜂起することになる。その後、一揆の火の手は加茂郡額田郡一帯に燃え広がって7町240箇村13000人の加わった大騒動になった。この一揆は「世直し」を掲げた騒動の先駆的な事例として有名であるとともに、その30年後に沸き立つ維新の回天の先駈けとなったことはほぼ間違いない。300年を経て、また新しい時代の産声が松平郷から上がったわけである。