昨日は久しぶりの読書会。メンバーの日程が合わず1カ月半ぶりだった。
今回の課題図書は、赤松明彦『ヒンドゥー教10講』(岩波新書)。決まった経緯はメンバーのウッチー君がインドに修行の旅をしてきたことから、「ではインドからみの本にしよう」ということになった。
でね、この本を選んだのはワシャである。「インド=ヒンドゥー」という安易な考えから、iPadをいじっていたらこの本が出てきたのだ。著者は知らなかったが岩波の赤本新書であるし、「まあ大丈夫だろう」と踏んだのが甘かった。
これクソ読み難い本でした(泣)。『ヒンドゥー教10講』という題の付け方も「センスがあるなぁ」と思ったら、そのまんまでした。ヒンドゥー教を研究したい学生たちを対象にした講義録だから、ほぼ素人には馴染みのないワードばかりが出てくる出てくる。往生こきましたぞ。
「第1講」は「ヒンドゥー教の歴史と地理」なので、ここはなんとかとっつけた。「神道」との比較についても触れてあって、「これなら」と感じて読み進める。
「ヒンドゥー」、「シンドゥ」、「インダス」、「インドース」、「インド」の羅列くらいまでは「なるほどね」と思いながら読み進めるが、16ページくらいから「ヴェーダ」、「ウパニシャッド」、「ヴェーダーンタ」、「ジャイナ」、「ヴィヴェーカーナンダ」、「ラームモーハン」、「ダーヤーナンダ」などと早口言葉のようなカタカナ語が大盛りで出てくる。これらに対する説明が少ない。「ヴェーダとウパニシャッドの思想から発展したヴェーダーンタ派の高次の哲学」って、ヴェーダとウパニシャッドが思想で、ヴェーダーンタが派の名前くらいは想像がつくけど、ヴェーダ、とウパニシャッド、ヴェーダーンタの個別の説明がないので理解が進まないのだ。ヒンドゥーの研究者たちには伝わるのかもしれないが、一般の読者にはなかなか難しい。著者も著者だけど、出版に携わった編集者の姿勢もどうかと思うね。なにしろ全編にわたって初めて見るカタカナ語が次から次へと登場する。
「こりゃダメだ」と思いましたぞ。そこで書店でこれを求めました。クシティ・モーハン・セーン『ヒンドゥー教-インド三〇〇〇年の生き方・考え方-』(講談社現代新書)。
これにはね、巻末に索引がついていて、約400の言葉が載せてあった。上記の早口言葉はすべてこの索引の中にあって、そのページを紐解けば言葉の意味が理解できた。
『ヒンドゥー教10講』も巻末に索引をつけておけよ。ホント、岩波は上から目線だから嫌になる。
とにかく講談社新書を使いながら不親切な岩波新書を読むという荒業で、なんとか読み切った(やれやれ)。お陰様で、ヒンドゥー教の大雑把なかたちは大づかみにできたと思っている。
神々が多く、宗派もたくさんあるが、シヴァ派とヴィシュヌ派が2大宗派でまとまっていること。
膨大な経典があること。
日本に伝わった密教もその宗派の中の一派であるということ。
開祖のない自然宗教であること。
業(カルマ)に伴う輪廻転生思想と解脱の哲学が重要なこと。
神道と同様に神々の住居である神社や祭壇を祀り祈ること。
神道は神社に行って祈ると信者だが、ヒンドゥー教は信者の家系であれば生まれる前から信者。そうでないもの、たとえば「日本人」は儀礼を受けようが祈ろうが信徒として認められない。
こんなことが、なんとなく理解できたくらいかなぁ(笑)。