古事記の話

 昨晩、月一の読書会。課題図書は石ノ森章太郎『マンガ日本の古典①古事記』(中公文庫)だった。前回の読書会で、パラピー君から推された一冊で、『古事記』の「上つ巻」(かみつまき)。冒頭に太安万侶(おおのやすまろ)の序文、そして本編の伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の物語、天照大神須佐之男の話、稲羽の白兎とか海幸彦、山幸彦あたりまでの、いわゆる神話と呼ばれる部分である。

 パラピー君がかなり勉強をしてきたようで、次田真幸『古事記』(講談社学術文庫)や、同じく学術文庫の『うひ山ぶみ』などに付箋をびっしり貼って臨んでいる。ううむ、これはなかなか手ごわいぞ(笑)。それに事前の準備として、読書会が始まる前に、ホワイトボードに「皇統譜」をびっしりと書き出していたんですよ。やる気満々でした。

 そこでちょっとした議論になったのが、『古事記』の信憑性についてだった。「中つ巻」の神武天皇以前の話は「創作が入っているのではないか?」という疑問が呈された。無論、神代(かみよ)の時代のことである。伊邪那岐伊邪那美が交接して、淡路島、四国、九州と次々に島を産んでいく・・・などというところは荒唐無稽だが、神話の登場人物をまとめた「神統譜」を見てみると、ざっとだが250の神の名が出てくるのである。

 これって、稗田阿礼(ひえだのあれ)の想像力だけでは如何ともしがたい情報量と言っていい。やはり稗田阿礼を始めとする多くの大和人(やまとびと)の中に伝承されてきた歴史と考えるのが妥当だと思う。

 今月の初めに亡くなられたドイツ文学の泰斗である西尾幹二先生が言っている。

《日本神話の世界をつくり話であるとして歴史世界から切り離し、神話と歴史を非連続体としてとらえるあらゆる措置は、今日では根拠なきこととして批判され、葬り去られるべき定めにあるように思える》

 日本においては神話と歴史は繋がっている。世界にこれほど連続した歴史を持っている国はないと断言できる。