岐阜県の大垣市に身内が住んでいたことがあって、そんなこともありはけっこう足を運びました。大垣城もあるし史跡も多いことから、資料も色々集めました。
大垣駅から西北西に4kmほどに関ケ原合戦の際に、徳川家康が本陣を構えた岡山という場所がある。今は小高い森のようになっているが、合戦時は徳川方の旗指物が数多翻っていたに違いない。
家康本隊は9月1日に江戸城を立っている。4日に小田原城、9日には岡崎城に着いている。家康にとっては幼少期に過ごした城であり、桶狭間の後に治めた思い出の土地であるにも関わらず、一泊しただけで翌日には尾張熱田に移動してしまう。
ううむ、家康、まったく情の薄い武将である。目の前に迫った決戦のことで頭がフル回転をしているのであろう。そこに「思い出の場所」などという甘いものが入り込む余地はなかった。
熱田でも一泊しただけで、11日には尾張清洲城に入っている。ここで家康は初めて1日丸々の休息を取る。来たる決戦のために兵を休ませたのであろう。
13日に清州を発し、その日の夕刻には金華山に入城した。石田三成の西軍が布陣する美濃に入ったである。
ここで家康は敵情を知るために忍びを放った。ここで家康は三成側が家康の行動をまったく把握していないことを知る。司馬遼太郎の『関ケ原』では、《(おどろくべきうかつさだ)と、家康は敵の光成の力量を、この一事で知った。》と書いている。
そして翌日の14日、家康は夜明けとともに岐阜城を出て、大垣城の北西にある小高い岡山をめざす。
合理主義者でリアリストの家康なのだが、岡山への布陣ばかりは過去のゲンをかついでいると『徳川実紀』に記載してある。
《此岡山といえるは。天武天皇白鳳のむかし大友皇子と御軍ありしとき。勝軍を秦せし行宮の地にて。》
このゲン担ぎは成功した。翌日の天下分け目の合戦では、あろうことか半日足らずで家康が勝利を収めてしまう。
この時、九州にいた黒田官兵衛は「長期戦になる」と踏んで、家康と三成が美濃辺りでごちゃごちゃやっている間に、九州を平定して西から覇を唱えようとしていた。関ケ原が長引き、策士官兵衛が再び天下取りに名乗りを挙げてくれば、徳川幕府など成立はせず、戦国時代がまた半世紀ほど続いたかもしれない。
しかし関ケ原の勝利はコロリと家康の手に落ち、官兵衛の目論見は潰えた。
いやはや今日は朝からネタが浮かんできませんでした。こんな日もあるんですね。だから、『日本史歳時記三六六日』(小学館)や『七十二候』(KKベストセラーズ)、『偉人の誕生日366名言集』(地研)、『記念日・祝日の事典』(東京堂出版)、『戦いの三六六日』(講談社)などをひっくり返してネタを探したんですが、14日にドンピシャリ、ピ~ンとくるものがなく、関ヶ原の合戦といえば明日なんですが、その決戦前夜(14日)を強引にくっつけてみました(謝)。