昨日の続き・・・というか、昨日を引きずっている。
司馬さんが言われた「無為にして化す」から入りたい。「無為」である。金谷治『老荘を読む』(大阪書籍)では「ことさらなわざとらしいことはしないこと」と言っている。人間の営みとして生み出されてきた文明文化(わざとらしいこと)を否定する、これが「無為」という思想なのかな?ますますわからなくなってきた。
岡先生は「“無為にして化す”は老荘の無であって、禅のいう無ではすでに足りません。禅のいう無はその下に置くべきです」と言われる。禅を善しとする永平寺門徒のワシャとしては、禅の思想が「老荘の下」と言われると、やや懐疑的にならざるを得ない。では、岡先生の言われる「禅のいう無」を調べてみよう。淡交社の『禅語百科』に依れば、「無」を仏教の基本述語とし《哲学的には有との相対を超えた絶対無であるが、実践的には無所得・無執着のこと》であると説明している。
実践的には「無所得・無執着」と特定しているなら、わざとらしいことを全体的に否定する「老荘」のほうが上か?
中野東禅『曹洞宗の常識』(朱鷺書房)では、「仏法で生きること、それは無心の生き方である」と言う。「無心之心」という禅語もあって、これは「心は自在に働きつつ、なおかつその本質は空であり無心なのだ」と解説する。ワシャの尊敬する臨済宗の白隠慧鶴も「無心之心」を「無念の念」として同様な説明している。
ここまでくると鈴木大拙の『無心ということ』(大東出版社)につながってくる。ここで大拙はこの句を出している。
「一竹葉堦を掃って塵動かず、月潭底を穿ちて水に痕なし」
(いちちくようかいをはらってちりうごかず、つきたんていをうがちてみずにあとなし)
竹の葉が風にそよぎ、石段の上にあるその影が揺れるが石段に溜まっている塵などは動きもしない。月の光が深い水底に投じられても水に穴が穿たれたような痕は見えない。
大拙は「こういうような言葉でないと、ここに言うところの無心が現れて来ない」と書いている。
はて、禅(仏教)における「無」というものはなんとなく分かったような気になった。なかなか言葉にはできなかったが、そんなようなものだとは理解していた。だが、「老荘の無」の「わざとらしいことをしない」だけでは、なぜ「老荘」のほうが上なのかまだ解決できない。
だから鈴木修次『人と思想 荘子』(清水書院)を引っ張り出してきた。ここでは、パープーの支那皇帝の迫害を受けた禅者たちが、限りない白眼と加害を受けた哲学である「荘子」に通い合うものを感じたと言っている。禅僧の玄侑宗久も『荘子と遊ぶ』(筑摩選書)の中で似たようなことを書いていた。
ふむふむ、「老荘思想」と「禅」には共通項がある、そのことは前から知っていたが・・・。
しかし、岡先生の言われる「禅のいう無はその下に置くべき」が納得できない。
ここに疑問を抱いたパラピ君の着眼力は大したものだなぁ。それにしても夕べから十数冊の書籍を紐解いているのだが、明確な答えにはたどり着けない。これが凡夫の限界か。岡先生と司馬さんの、わずか数行のやりとりが理解できない。ご両所は、双方納得の上で話を進めている。もちろん相手の発言の奥行き、深さも理解しあいながら。
ううむ、お二人ともが尋常ならざる人物だということは判っているのだが、本棚にある関連本をこれだけ駆使しても、足元にも近づけないとは。まだまだ勉強不足だなぁ。日暮れて道遠し、これを実感させられた。
「まだまだ頑張らねば」とアホのワルシャワは雨天の空を見上げて誓ったのでした(笑)。